Previously, mari's paris life


"La France traverse une phase de vulgarite. Paris, centre et rayonnement de betise universelle" - C. Baudelaire :p
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フランス語を選んで
先日フランス語会話の授業で、「フランス語を専攻として選んで、後悔しているか否か」という話になった。

私は英米語学科なのだけど、第二外国語として履修した後、専攻語並みにフランス語を履修することにし、フランスへと渡り、今に至る。

思わず考えてみた、この質問・・。



そもそも、どうしてフランス語を勉強しようって決めたんだっけ?

どうしてここまで好きになったんだろう。ではさて、これからは?



様々な思いが頭の中を駆け巡る中、私の答えはやっぱりNon「後悔なんてしていません」だった。むしろ、フランスでの生活が、私という人間を豊かにしてくれたことしか思い浮かばなかった。



大学に残っている、数少ない同い年の友達に会うと盛り上がる。どうして私が、英米語学科にいながらここまでにフランスを好きになったのか。彼らには不思議で仕方がないらしい。

私は1回生の頃、まだ全然(ということは今では・・ということである)アメリカが大好きであった。卒業後、アメリカのロースクールに行きたいと、無謀にも考えていた。

しかし、大学での日々を過ごすにつれ、専攻語+αの何かがしたいなぁ、という気が生まれた。それがフランス語だった。完璧なフランス語を話したい、習得したいという強い気持ちが生まれた。ちょうど、将来が見えず、大学では行き詰っていた時期だった。



その後渡ったフランスでは、苦しいことももちろん、それを上回る程の楽しい、何者にも変え難い経験を得た。歴史あるヨーロッパという大陸の中で、私も少なからず、フランスという国のエスプリ、精神を、感じ取り、学び取っていたのだと思う。大学に入学した頃、アメリカが大好きだった頃の自分と比べると、遥かに人間的に丸くなったと思う。あの頃の自分にはなかったものを、フランスでは身につけたと思っている。フランスが私にもらたしてくれたもの、それは言葉だけではなく、(ちょっとだけだけど)エレガントに振舞うことであったり、人生を楽しむこと、謳歌するコツ、自分らしく、そして堂々と振舞う方法であったと思う。これは今でも、非常に捨てがたい。そしてこれらの、いわば私の精神的滋養となった要素が、今の私を形作った。



だから当然、フランス語を選んで後悔なんてしていない。フランスは私に、言葉だけでない様々な成長をもたらし、それはフランス語という枠を越え、フランスが持つ知恵や気品などに触れさせてくれたように思う。つまり日本で生活しているだけでは、到底得ることの出来なかったものをくれた。

ただ留学するなら、きっと、どこでもよかったと思う。でも私は、フランスがよかった。フランス語を話す、フランスがよかった。この気持ちは今でも変わらないし、今後もフランスのことを、良くも悪くも批判的な視線を持ったまま、好きでい続けるであろう。



両親への感謝を込めて。


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涙のシャルル・ド・ゴール
6月24日。きっと、私にとっては、一生思い入れのある日。



一年前の今日、フランスを発った。翌日25日の朝、香港経由で実に17時間飛行機を乗り継いだ後、関西国際空港に到着した。到着ゲートには、両親が迎えに来てくれていた。そのまますぐ、京都へと向かった。すぐに引越しを済ませなければならなかった。



フランスを発つ際、前日2時間も寝ていない状態で空港へと向かった。晴れた、気持ちのいい日だったのを覚えている。フランスでの毎日が完全に、自分のものとなり自然なこととなり、ここを、どうやって離れるのか理解できなかった。永遠に続くであろうフランスでの生活は、終わったのである。



寮には彼が迎えに来てくれていた。寮のロビーで仲良しの、女の子達に「今日帰るの?」と驚かれながらもお別れを言い、可愛がってもらっていた掃除のおばちゃん(モロッコ出身)にもまた頭を撫でてもらい、幸運を祈ってもらった後、寮を後にした。それからは、メトロとRERを乗り継ぎ、シャルル・ド・ゴールへと向かった。フランスを発つことがまだ信じられなかった。胸が痛んだ。



『フランスに来て、10ヶ月半が経ったのだ・・』そう自分に言い聞かせた。そして、ついに帰る時が来たのだとも。

隣で彼は、明らかに悲しい表情を浮かべていた。前日から様子がおかしかった。いつ泣き出してもおかしくなかった。今思い出しても胸が詰まる。



チェックインカウンターへ到着すると、待っていたのは長蛇の列だった。日本人の姿も多く目に付いた。

仕方がないので私達も列に並んだ。出発まで、あと3時間あった。



列はどんどん長くなっていく。私達の番はどんどん近づいてくる。旅立ちまでの時間が、刻一刻とやって来ては涙が出そうになるのを必死にこらえた。しかし振り向くと、彼の方が既に泣いているのだ。私はそんな、構わず涙を浮かべる見慣れない姿の彼を見て動揺し、必死に彼が泣くのをなだめた。

どうしようもなかった。これから離れ離れになる私達に、一体どういう付き合いが待っているのか想像が付かなかった。付き合い始めた頃既に、お互いパリでの期間が3ヶ月を切っていた。帰国すれば、自然と終わってしまうんだろうな、と思っていた。



チェックインを済ませ、いよいよ搭乗ゲートへと入らなくてはならなくなった時、私は最後まで留まった。残り5分になったところで、お互い涙が止まらなくなった。



次いつ会えるかも分からないで、離れなくてはならなかった。今思えば、きちんとした計画なんて全然たてていなかった。でもあまりにも彼が泣くので、私は自信が持てた。私達は大丈夫、と。



搭乗ゲートへも長蛇の列が出来ていたが、その前に荷物検査を受けなくてはならない。そこに扉はなく、ずっと姿が見えるので、それが余計辛かった。

振り返るといつも、彼がその優しい目で見てくれていた。やっと姿が見えなくなると思うと涙が溢れ出した。すると、私の後ろに並んでいた日本人女性が私に、「あの・・彼氏ですよね?まだあちらから手を振っておられますよ」と声を掛けてくれた。あの時の驚きは忘れない。すぐに振り返ると、彼がまだ私の姿が見えるように少し移動して、ずっと手を振り続けてくれていた。ますます涙が止まらなかった。周りの人にどう思われようとも気にもしなかった。そんなことはどうでもよかった。



そんな風にして、私は泣く泣くフランスを後にした。後で彼に聞くと、私が荷物検査に入った後、横で警備をしていたアフリカ系女性の係員に、彼は、



"Monsieur, vous etes enormes(ムッシュー、あなた達すごいカップルね、とでも訳せばいいのだろうか)."、と話しかけられたそうである。どんなに私達が泣いていたのか分かるだろう。そしてその女性は続いて、



"Elle revient en France, n'est-ce pas(でも彼女、またフランスに戻ってくるんでしょ)?"と言い、彼は"Non..."とだけ答えた。そしてまたこの女性が、



"Mais Monsieur, vous allez la voir en Hong-Kong, non(でもあなた、彼女に会いに香港に行くんでしょ)?"と言い(この時点でこの女性は、彼のことを完全にフランス人だと思っている)、それに対し彼は、"Elle est japonaise(彼女日本人なんだ)..."と答えたらしい。日本は、遠いと・・・(でも香港とそんなに変わりがないと思うのだが)。





そんな風にして、私達はパリでの日々に終止符を打った。その後先月にパリへ行った以来、次の予定は決まっていない。白紙である。



世界の、どの空港へ行っても、この日のことだけは忘れない。空港へ行くと、いつも、どこか胸がきつく締め付けられるような思いに駆られる。それはどこでも、同じ場所で生きられない哀しきカップルが、毎日涙の別れを繰り返しているからだと思う。そして私の場合も、きっと、この日に因るものだと思う。
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フランスよ、どこへ
おはようございます!珍しく、フランスにいた時以来、朝に更新です。



私事ですが、この度新しくパソコンを買い換えました!パチパチパチーキラキラ

今まで使っていたパソコンは、NECのLavieだったのですが、大学入学した年に買って、早5年。そろそろ寿命だったみたいです。フランスにも持って行ったし、何より小さかったため持ち運びもしやすく、寮の女の子達には羨望のまなざしで見つめられたりで気分よかったのだけど(笑)。



newパソコンは東芝の、dynabookにしました。真っ白で、リンゴのシールをトップに付けたので、アップルさながらです(笑)。

打ちやすくてスイスイ。どれだけ旧パソコンが傷んでいたのか分かりました。。



さて。最近なんだか、社会派ブログを目指しているかのような記事ばかり続きますが(嘘です)、今回もそれに漏れず、ちょっと真面目に考えてみたいと思います、昨今の、フランスについて。



今年時事フランス語の授業やバイト先でOVNIが読み放題、ってのもあるけど、ニュースや友達の話を聞く限り、最近のフランスにおける、移民政策はいかなるものやら。

フランスに留学した時ももちろん、スウェーデンに旅行した時からヨーロッパに暮らす移民の人々は、なぜか私の興味を惹きつけて止まず、まず、?どこから来たのか、?どうやって来たのか、?どんな仕事をしているのか(または出来るのか)、ということを考えてみたくなるのです。そして、主にヨーロッパにおける移民問題を、卒論のテーマにすることにしました〜。



一番気がかりなのは、やはり一番好きな国、フランスの移民政策です。

昨年11月にパリ郊外にある、電子力発電所に、いわゆる両親に、フランスではない外国出身者を持つ子供が紛れ込み、警察の過度の追い込みにより(と彼らは主張)その子供は事故死、それに怒った郊外の若者が暴動を起こしたのを筆頭に、その後パリ市内へと流れ込んだその暴動は記憶に新しく、実に何台もの車がまったく事件とは関係ないところで燃やされました。



その事件を受けて、何かと問題発言の多い社会党の政治家、ニコラ・サルコジがですね〜(この人は現在内務相である)、郊外に昔から住む、白人のフランス人に対し治安の向上を約束するため、「安心して下さい皆さん、こういった郊外のくずどもは私が見事掃きだしてみせましょう」と言ってしまったんですね〜。



この言葉に当然、郊外の若者は怒った。このサルコジという政治家は、シラク大統領をライバル視していて、昔日本に関する話題でも相撲大好き、超親日家のシラクさんを目のカタキに「相撲など半裸で戦うスポーツの良さなど私には理解出来ない(だったか)」などと発言していて、何かとその発言にはカド、問題のある人ではあります。

そしてこんな人が、昔国連でアメリカのイラク派兵問題について熱く、フランスは断固反対すると述べた、詩人でもあるド・ヴィルパンというまぁ私好みのイケメン政治家がですね(確かに美形なのじゃ)、アメリカに啖呵切った頑固さをもとに、現在のフランスで溢れている諸問題は郊外の若者、移民の子に起因するものだ、と定義付けてしまったものだから、不安がる人々にはすっかり、「移民=危ない」という方程式が出来上がってしまって、昨今ではサルコジを筆頭に、「フランスへ来たがる移民を選ぼうじゃないか」、という法律案、いわゆる現行の法律に対する移民法改正案が出来上がってしまったんですね〜。



春先から続いたCPE反対のデモ然りで、CPE(せーぺーうーと読む)とは、大学を卒業する若者が、1〜2年の一定の雇用期間内に、特定の理由を知らされないままいつ解雇されても、雇用主には何ら責任がないものとして研修を行わせることができる」という、シラクさんとド・ヴィルパンが打ち出した、あくまでも失業率対策の法律だったわけですが、これを、「そんなんいつ、不当な理由で解雇されるか分からんやん!」と解釈した若者は、直ちに集結、この様なデモを起こしたわけです。いや〜、さすがフランス革命の起こった国、と思わずにいられない。

まぁフランスはご存知の通り、失業率高いからね。ヨーロッパでもドイツと肩を並べるくらいその率は高くって、最近の統計ではその数226万2千人、これでも4月よりも、3万900人減ったそうです。よって失業率は、前月比より1,1&減の9,3%。雇用相は今年度末までに、8,9%まで下げることを目標としているそうです。



でこのデモが、実に3ヶ月ばかり続いた。

1968年の五月革命以来、ソルボンヌ大学には学生が立て篭もり、連日警察とのバリケード戦が続きというから、学生も必死である。そのためデモ中は授業を行うことが出来ず、結果最終試験も延期され、通常フランスは7月から夏のバカンスに入るのに、最終試験はその7月のバカンス期に流れ、私がちょうどパリへ行った4月の下旬、やっと、大学では授業が再開されたそうですから、デモに参加していなかった人達にとっては、ただの災難である。



そんで、このCPE反対デモに、悲しきかな前回の暴動で、思う存分日頃の不満をぶつけることが出来なかった郊外の若者が流れ込み、こちらのデモも一部暴徒化、これは日本でもニュースになりました。

実際に私の友達(フランス国籍だけど、インドとマダガスカルのハーフで超美形の、知る人ぞ知るコルネイユ似(笑)。)も、CPE反対のデモに参加していて、ほぼ毎日デモに出かけて行き(一時はプロかの様に参加していた・・)、そんな学生が最終的には、25万人パリ中に集まったもんだから、これにはシラクさんもお手上げで、CPEは無事、否決されたのでした。



で、CPE反対デモに、郊外からの全く関係ない若者が紛れて、肝心のデモを暴徒化させてしまったもんだから、人々の間に「家賃の安い郊外に多く住む移民の子=ますます危険=治安悪くなる」という方程式が出来上がってしまって、移民選出法なるものが、考え出されてしまったわけです。



これによると、政府が定めるフランス語の試験はもちろんのこと(これはまぁいい、日本人でもフランス語がろくに喋れないのにパリ中にごろごろしているから)、フランスは最も移住しやすい国、とまで言われていたのに、今ではすっかり難しい国に。留学を始めとした学生ビザでさえも、今では取得が難しいそうです。

一番ひどいのは、先にフランスへ入国していた移民の、祖国に住む家族を呼び寄せるに今では最低、18ヶ月かかることになってしまったらしい。



いいですか、普通の、それも正規の学生ビザで留学するのにも審査が厳しくなったんですよ、ビザが下りにくいんですよ?パリで法律を勉強しているアルバニア出身のロリンは、国から彼女を呼び寄せようとしたら、通常フランス語を学ぶためには難なく下りるはずの学生ビザが、この法律のせいか下りなかったと言うんだから驚きです。そして私の大学からも派遣でフランス・アンジェと行く学生が、「大学からの派遣でもビザが下りないかもしれないと言われた」と言うんだからよっぽどです。



これにはフランス旧植民国の、北アフリカのアラブ諸国やアフリカ諸国から当然反対の声が上がっています。「移民を選別するという考え方は、奴隷売買時代を思わせる。あの時代はヨーロッパに連れて行くために、奴隷商人達は歯が丈夫で頑丈なアフリカ人を選別していた」という歴史的根拠に基づく反論が聞こえ、このままでは、出身国に基づく、まるで民族差別さながらの移民選出法が可決されてしまうことになります。



これに、日本も例外ではなく漏れていないというから、一体、「この国からの移民は良い、この国は駄目」って、誰が決めるのよ?サルコジか?ド・ヴィルパンか?それともシラク大統領か?

私がパリにいた時に出来た友達だけでも、タイで生まれて赤十字に連れられてカンボジアから戦線を逃れて家族と共にフランスへ来た子、祖国の共産主義に反対してフランスへと来た中国出身の人、おばぁちゃんはアルジェリア出身、でも自分はフランスで生まれたからフランス国籍のパリジェンヌ、4月に泊まったアパルトの、向かい側に住んでいたおそらくカンボジア出身の家族(赤ちゃんまでいた・・)、と、一口にフランス人を定義付けることなんて到底出来ない、言い換えれば、フランス人とは様々な人種、国籍が混ざり混ざって出来上がった民族なのである。大体ことの発展となったニコラ・サルコジも、その苗字から分かる様に、中央ヨーロッパ、ポーランドを起源に持つ血筋だ。つまりサルコジ自身、移民の子供だったわけである。そしてこの様に豊かであった外国文化が、フランスに様々な文化をもたらし、今日のフランスが出来上がったわけである。そこがフランスの利点であった。フランス、自由の国。フランス、博愛の国・・。それなのに、フランスは、どこへ?どこへ行ってしまうの?



パリに暮らす外国人を、一斉に警察庁へ呼び出して、職務質問する(正当な居住に当たっての理由があるかどうか調べるため)という案も上がっているそうだから、そのうち外国人は、フランスからいなくなるのだろうか?でも、どうやって?



人が人を選ぶ?誰にそんな権利がある?

しばらく、フランスで暮らす夢は待った方が良さそうです・・・。
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外国で生きていくということ
こんにちは!ふふ・・久しぶりの更新です。これからはネタを見つけて頻繁に更新できるようにします・・



実は5月から、私の住む京都にある、某フランス語学校で事務として働いております。もちろん、アルバイトだけど、その学校は留学業務も兼ねていて、そちらから私もお世話になりパリへと旅立ったので、毎回ウキウキしながら京都の小さいビジネス街を通り抜け、通い、いわば恩返しの気持ちで張り切って働いております(あんまり言うとバレちゃうから秘密ドキドキ小)。

どうしてここでのアルバイトを得たかと言うと・・ ある日、大学の隣にある某スーパーで、ここの社員の方(私の留学をお世話してくれた人)とすれ違い、直接誘っていただいたのだードキドキ大 (留学から帰ってきても、OVNIというパリで発行されている日本語新聞をもらいになど、ちょこちょこ顔を出していたのが運のツキであった(笑)。何かあるかもと印象を残しておいた私・・)

なんて幸運。感謝x2である。それ以来、バイトに行くのが楽しみでなりませんっドキドキ大



ここはフランス語学校として運営しているので、当然フランス人講師がいます。大半が、ワーキングホリデーで日本に来ている人、または、日本女性と婚約、結婚していて、生計のために働いている人。

ワーホリで来ている人は、期限付きで、一年でフランスへと帰らなくてはなりません。フランス語学校だってそんなに数多いものじゃないから、異国の地日本で仕事を見つけ、やっていくのは本当に大変なことだと思う。



言葉(この場合は日本語)ができるのはもちろんとしても(皆さんぺらぺらである)、講師の彼らを見ていて、外国でやっていくのは簡単なことではないし、それは生計を立てていく上でも、精神面でも、楽なことではないんだなぁと痛感する。

そしてまた日本も、フランスと同様、特殊な国である。その国の文化を心底好きでなければ、言葉に苦労がなければ大変だと思う。伝統やしきたりがまだまだ残っているし、まったく文化が違う国で生きていくのは様々な理解と努力が伴う。



恋人だったり、誰か知人がいるとまた少し違うのかもしれないけど、外国で生きていくのはけっこう心細い。そしてワーホリや留学で日本にやって来る、日本大好きの外国人学生の大半が皆、日本で正規のビザを得て、働きたいという夢を持っている。



彼ら、講師を見ていて思ったこと。それは、知らない土地でうまくやっていくことの秘訣には、語学や能力などももちろんだけど(適応能力だって挙げられるだろう)、意外と人柄なんじゃないのかなぁ・・・、ってこと。いやー、フランス人、いろんな人がいるもんです。一緒に働くこっちも大変、パリで正規に働いている友達を、心から崇拝するね!



具合が悪ければすぐ病院に行って、医師の処方箋さえあれば数日間、ドクターストップとして仕事を休むことができ、なおかつその間の給与ももらえるようなフランスとは、可哀相なことに日本は違う。日本では、年に二週間あるかないかのバカンスしかもらえなくって、毎日勤勉に、働き続けることが良しとされる。時間に正しいことは重要な要素だし、急に仕事を休むなんてこと、あまり迎えられない。どれだけ文化を理解していても、それはまた、伝統や芸術面の文化とは違って、ビジネスに関する文化とは異なるものである。



日本で日本人が良しとされるように毎日働き、休みは少ない中生きていくというのは、フランス人にとってはとてもツライと思う。



外国で、どうやって仕事を得るか。それは、本人の能力然りだけど、厚い人望、人柄も大事じゃないかなぁ・・。人に信頼されること、社交的であること、現地の知り合いが多いこと。決してマイナスではないよね。



あまり詳しくは言えないけど、私も日々、外国で暮らすことについてぼんやりと考える(私の場合は夢だけど)。その際、何か自分がやりたいと思う、目標を持っていること、ある程度のビジョンをしっかりと持っていることが、大前提である、のは肝に命じている。

でも仕事というものは(私の場合はアルバイトだけど)、私がスーパーで社員の女性に出会ったのと同じく、運や縁ていうものも絡んでくるから、そういう一瞬のものを手に入れるためにも、日頃の行いが大事かもなぁ、と、思わず関連付けて考えてしまうのでした。しかもチャンスって、本当、一瞬のうちに掴まなくちゃならない。私も卒業後の未来、しっかり考えよーっと(笑)!


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