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我踊る、故に我あり!
2006.07.26 Wednesday
ちょっとカタイ話題が続いてしまったので(スミマセン)、今日はフランスにおける、私の好きな音楽について書こうと思います
始めに断っておきますが、私は現代フランスの音楽は大の嫌い。
フランスのポップミュージックシーンは日本のそれよりひどくって、オーディション番組で選ばれたアイドル然り、原因はおそらく、音楽ジャンルにフランス語という音が合わないことが挙げられると思う。
フランスのヒップホップもニガテなもののひとつで、英語で言う「Hey Yo!」がフランス語ではどうなってしまうでしょう?
「H(エイチ)」を発音しないので「えいよー」ですよ!? こんなフランス語のラップのどこがかっこいい・・・。もっとも、映画"Taxi!"シリーズなんかを観ると、フランス語のヒップホップが好きになるらしいけどね。私"Taxi 1"は観たけど、音楽については依然「?」でした。
そんな中で、私が好きなフランスの音楽シーンは断然昔のフレンチポップス!
『いかにも〜・・』という批判は喜んで受けよう。でもこればっかりは私の完全なる趣味の世界であり、フレンチポップスのリズムにこそフランス語の音が似合うのである。
春先にパリへ行った際、前々から欲しかったCDを一気に買い求めました。
それが写真のCD達。
左上のシルヴィー・ヴァルタンのは日本で買ったものだけど、それ以外の3枚はこないだスウェーデンとパリで買いました。
ルーブル地下にある、私行きつけのヴァージンで運良く安売りしていたので全部買いました(笑)。『これも研究の一部だ』と思いながら
私はやっぱり、60、70年代のフランスが好きです。ファッションにおいても、音楽、文化においても。ヨーロッパ古着なんて大好きだし。
これら3枚のCDに共通している、ある人物がいます。
それが作詞作曲家であり、映画監督でもあり、自身が歌手でも俳優でもあった、セルジュ・ゲンズブールという人物。
それが彼。渋い、いいおっさんである。
今年、このセルジュ・ゲンズブールが39歳の若さで心筋梗塞で自宅前の道で倒れ亡くなってから15年ということで、こないだ訪れた時フランスでは、彼のちょっとした特集があちこちで組まれていました。
この人が書く詞はいつも性的表現の隠喩に溢れていて、代表的なものに当時別の男性と結婚していたブリジット・バルドーとのデュエット曲であった「ジュテーム、モア・ノンプリュ」があります。その後バルドーは、当時の夫との離婚を恐れてこの曲はリリースされませんでしたが、現在では私の持っているこのアルバム(ベスト版である)に収録されています。
歌詞を聴くとそのぎりぎりさはドキドキものである(さぁ皆も今すぐネットで調べてみようー!)。
性的表現の隠喩も然ることながら、この人はダブル・ミーニングも多く用いて詞を書いた人です。これらのCDの中にも、ゲンズブールが詞を提供したものがたくさん!
よく知られている歌手の一人に、フランス・ギャルがいます(私はこの人の名前、ずっと日本語的に解釈してた、恥ずかしい!フランスという名も、ギャルが本当に苗字だったとはこのアルバムを買ってから知りました・・)。
《ゲンズブール的言葉遊びの一例》
フランス・ギャルに提供したもの "Attends ou va-t'en(あとん う う゛ぁとん、「待つか出ていって」である)" 曲を聴くと韻を踏んでいるのが分かる。
続いてゲンズブール三人目の妻であったジェーン・バーキンに捧げた曲、"Baby Alone In Babylone"、これも韻を踏んでいるのが分かるよね!
酔っていたのか・・ てゆーか大体、「愛してる、僕も愛してない」という歌詞を思いつく人である。ちなみにゲンズブールは晩年、ジェーン・バーキンとの離婚の一因となった過度の飲酒・煙草が更に悪化して、ふらふらに酔ったままテレビ出演することもザラでした。有名なエピソードの一つに、アメリカの歌手ホイットニー・ヒューストン(この人も今ドラッグで大変な最中にある人である)に対し、堂々と"I want to fuck you!"と繰り返した(笑)。それに対しホイットニーは始め耳を疑ったものの、"What!?"と聞き返すホイットニーに更にゲンズブールは"I wanna fuck you, fuck you"と繰り返したのである。
幸せだった頃の二人。
ジェーン・バーキンはもともと、ロンドンの生まれでモデルとして活躍している頃フランスへとやって来た人です。なのでまったくフランス語が喋れず、ゲンズブールに見出されるとゲンズブールはわざと、彼独特のフランス語発音をジェーンに吹き込み、真似をさせ、フランス語を教えたといいます。今でもジェーンの発音を聞くとゲンズブールそっくりらしい。これもある種の愛の象徴ですか、素敵です
そんな二人の間に生まれた女優であるシャルロット・ゲンズブール幼少期。フランス人も皆認める程、お父さんの才能をばっちり受け継いでいます。お父さんにもよく似ていますね〜。
こちらは現在のシャルロット。私も大好きな女優さんの一人である。彼女はお母さんがイギリス人なので、英語もぺらぺら。以前雑誌のインタビューでは「紅茶がすごく好きなの。こういうところは母方の国の影響かしら」とパリ・サンジェルマン・デ・プレにあるサルトルや文豪が集まり熱く議論を交わした有名カフェ、カフェ・ドゥ・マルゴーで答えていた・・・。
BB(ベベ)ことブリジット・バルドーとの幻のデュエット曲「ジュテーム、モア・ノンプリュ」はヒットすることがなかったけれど、この曲はジェーン・バーキンとその後歌われ、公のカップルであった二人が歌うとヨーロッパ中で大ヒットを記録しました。フランス語に英語訛りのあるジェーンの歌は、とってもセクシーなんだって!(4回も離婚経験のある後期の先生談)
時代の寵児ともてはやされたゲンズブールですが、心の中はとっても繊細だったそう。心の弱さがきっとスクリーンにもにじみ出ていて、それを自然と感じ取っていた聴衆のフランス人は、ますます彼を愛したといいます。
ジェーンもゲンズブールが亡くなり15年経っても依然、「セルジュとの恋愛は今でも忘れられない愛のひとつよ」と言うなど、その人気は衰えることがないようです。
ちなみにジェーンはその後映画監督と再婚し、その娘がこれまたフランスを代表するルー・ドワイヨンという女優?モデルさん。余談だがこの人は本当によくパリで見かけた。細長い!という感じ。パリコレで出くわしたのもこの人です。
また、フランス・ギャルのその他の歌詞もまた面白くって、私が好きなものの中に"Dis a ton capitaine(キャプテンに伝えて)"と軍事訓練に言ってしまった恋人を想ってせつなく歌う歌、「キャプテンに伝えて、私があなたを愛してるって。キャプテンに伝えて、あなたがいなくて退屈してるって」など、女の子の心理を歌ったものが多いです。その他"Ne dis pas aux copains(男友達に言わないで)"は、「私達のこと、あなたの男友達に言わないでね、私があなたのこと好きってこと、男の子達に言わないでね」、BBの曲"Je danse, donc je suis(我踊る、故に我あり)"は有名な哲学者デカルトの言葉"Je pense, donc je suis(我想う、故に我あり)"をもちろんもじったもの・・など、やっぱりこんな感じなのです(ちなみに初めてBBのこのフレーズを私が目にしたのはストックホルムで行ったフレンチ・シャンソンのディスコで、そのポスターにこの言葉が使われていました。最初ただ「ウケる!」とだけ思ったけど、そういうワケだったんですね〜。無知であった)。
それからこのBBのアルバムに収録されている、"Ca pourrait changer(変わるかも)"という曲が、私がフランス語を勉強するきっかけとなったNHKのフランス語番組の当時主題歌で、これを聴いた途端なんとも言えない懐かしい気持ちになりました。
あの時分からなかった歌詞が、今では聞き取ることが出来る。5年前の自分と比べて進歩があったことが分かる瞬間でした。嬉しい
たぶん人によって、フレンチ・ポップスなんて・・と言う人もいるだろうけど、機会があれば是非!オススメです。また、これらの曲を聴く時はフランスで昔、様々な愛が繰り広げられその結果、今日の音楽シーンが誕生していること、ゲンズブールの悲しい愛と死が今でもフランス国民には迎え入れられていること、忘れないで下さい。これらの曲を聴くと、自然とそういった歴史までもが思い浮かんでくるのです。
あ〜趣味について書くのは楽しいね長々と読んでいただきありがとうございました
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始めに断っておきますが、私は現代フランスの音楽は大の嫌い。
フランスのポップミュージックシーンは日本のそれよりひどくって、オーディション番組で選ばれたアイドル然り、原因はおそらく、音楽ジャンルにフランス語という音が合わないことが挙げられると思う。
フランスのヒップホップもニガテなもののひとつで、英語で言う「Hey Yo!」がフランス語ではどうなってしまうでしょう?
「H(エイチ)」を発音しないので「えいよー」ですよ!? こんなフランス語のラップのどこがかっこいい・・・。もっとも、映画"Taxi!"シリーズなんかを観ると、フランス語のヒップホップが好きになるらしいけどね。私"Taxi 1"は観たけど、音楽については依然「?」でした。
そんな中で、私が好きなフランスの音楽シーンは断然昔のフレンチポップス!
『いかにも〜・・』という批判は喜んで受けよう。でもこればっかりは私の完全なる趣味の世界であり、フレンチポップスのリズムにこそフランス語の音が似合うのである。
春先にパリへ行った際、前々から欲しかったCDを一気に買い求めました。
それが写真のCD達。
左上のシルヴィー・ヴァルタンのは日本で買ったものだけど、それ以外の3枚はこないだスウェーデンとパリで買いました。
ルーブル地下にある、私行きつけのヴァージンで運良く安売りしていたので全部買いました(笑)。『これも研究の一部だ』と思いながら
私はやっぱり、60、70年代のフランスが好きです。ファッションにおいても、音楽、文化においても。ヨーロッパ古着なんて大好きだし。
これら3枚のCDに共通している、ある人物がいます。
それが作詞作曲家であり、映画監督でもあり、自身が歌手でも俳優でもあった、セルジュ・ゲンズブールという人物。
それが彼。渋い、いいおっさんである。
今年、このセルジュ・ゲンズブールが39歳の若さで心筋梗塞で自宅前の道で倒れ亡くなってから15年ということで、こないだ訪れた時フランスでは、彼のちょっとした特集があちこちで組まれていました。
この人が書く詞はいつも性的表現の隠喩に溢れていて、代表的なものに当時別の男性と結婚していたブリジット・バルドーとのデュエット曲であった「ジュテーム、モア・ノンプリュ」があります。その後バルドーは、当時の夫との離婚を恐れてこの曲はリリースされませんでしたが、現在では私の持っているこのアルバム(ベスト版である)に収録されています。
歌詞を聴くとそのぎりぎりさはドキドキものである(さぁ皆も今すぐネットで調べてみようー!)。
性的表現の隠喩も然ることながら、この人はダブル・ミーニングも多く用いて詞を書いた人です。これらのCDの中にも、ゲンズブールが詞を提供したものがたくさん!
よく知られている歌手の一人に、フランス・ギャルがいます(私はこの人の名前、ずっと日本語的に解釈してた、恥ずかしい!フランスという名も、ギャルが本当に苗字だったとはこのアルバムを買ってから知りました・・)。
《ゲンズブール的言葉遊びの一例》
フランス・ギャルに提供したもの "Attends ou va-t'en(あとん う う゛ぁとん、「待つか出ていって」である)" 曲を聴くと韻を踏んでいるのが分かる。
続いてゲンズブール三人目の妻であったジェーン・バーキンに捧げた曲、"Baby Alone In Babylone"、これも韻を踏んでいるのが分かるよね!
酔っていたのか・・ てゆーか大体、「愛してる、僕も愛してない」という歌詞を思いつく人である。ちなみにゲンズブールは晩年、ジェーン・バーキンとの離婚の一因となった過度の飲酒・煙草が更に悪化して、ふらふらに酔ったままテレビ出演することもザラでした。有名なエピソードの一つに、アメリカの歌手ホイットニー・ヒューストン(この人も今ドラッグで大変な最中にある人である)に対し、堂々と"I want to fuck you!"と繰り返した(笑)。それに対しホイットニーは始め耳を疑ったものの、"What!?"と聞き返すホイットニーに更にゲンズブールは"I wanna fuck you, fuck you"と繰り返したのである。
幸せだった頃の二人。
ジェーン・バーキンはもともと、ロンドンの生まれでモデルとして活躍している頃フランスへとやって来た人です。なのでまったくフランス語が喋れず、ゲンズブールに見出されるとゲンズブールはわざと、彼独特のフランス語発音をジェーンに吹き込み、真似をさせ、フランス語を教えたといいます。今でもジェーンの発音を聞くとゲンズブールそっくりらしい。これもある種の愛の象徴ですか、素敵です
そんな二人の間に生まれた女優であるシャルロット・ゲンズブール幼少期。フランス人も皆認める程、お父さんの才能をばっちり受け継いでいます。お父さんにもよく似ていますね〜。
こちらは現在のシャルロット。私も大好きな女優さんの一人である。彼女はお母さんがイギリス人なので、英語もぺらぺら。以前雑誌のインタビューでは「紅茶がすごく好きなの。こういうところは母方の国の影響かしら」とパリ・サンジェルマン・デ・プレにあるサルトルや文豪が集まり熱く議論を交わした有名カフェ、カフェ・ドゥ・マルゴーで答えていた・・・。
BB(ベベ)ことブリジット・バルドーとの幻のデュエット曲「ジュテーム、モア・ノンプリュ」はヒットすることがなかったけれど、この曲はジェーン・バーキンとその後歌われ、公のカップルであった二人が歌うとヨーロッパ中で大ヒットを記録しました。フランス語に英語訛りのあるジェーンの歌は、とってもセクシーなんだって!(4回も離婚経験のある後期の先生談)
時代の寵児ともてはやされたゲンズブールですが、心の中はとっても繊細だったそう。心の弱さがきっとスクリーンにもにじみ出ていて、それを自然と感じ取っていた聴衆のフランス人は、ますます彼を愛したといいます。
ジェーンもゲンズブールが亡くなり15年経っても依然、「セルジュとの恋愛は今でも忘れられない愛のひとつよ」と言うなど、その人気は衰えることがないようです。
ちなみにジェーンはその後映画監督と再婚し、その娘がこれまたフランスを代表するルー・ドワイヨンという女優?モデルさん。余談だがこの人は本当によくパリで見かけた。細長い!という感じ。パリコレで出くわしたのもこの人です。
また、フランス・ギャルのその他の歌詞もまた面白くって、私が好きなものの中に"Dis a ton capitaine(キャプテンに伝えて)"と軍事訓練に言ってしまった恋人を想ってせつなく歌う歌、「キャプテンに伝えて、私があなたを愛してるって。キャプテンに伝えて、あなたがいなくて退屈してるって」など、女の子の心理を歌ったものが多いです。その他"Ne dis pas aux copains(男友達に言わないで)"は、「私達のこと、あなたの男友達に言わないでね、私があなたのこと好きってこと、男の子達に言わないでね」、BBの曲"Je danse, donc je suis(我踊る、故に我あり)"は有名な哲学者デカルトの言葉"Je pense, donc je suis(我想う、故に我あり)"をもちろんもじったもの・・など、やっぱりこんな感じなのです(ちなみに初めてBBのこのフレーズを私が目にしたのはストックホルムで行ったフレンチ・シャンソンのディスコで、そのポスターにこの言葉が使われていました。最初ただ「ウケる!」とだけ思ったけど、そういうワケだったんですね〜。無知であった)。
それからこのBBのアルバムに収録されている、"Ca pourrait changer(変わるかも)"という曲が、私がフランス語を勉強するきっかけとなったNHKのフランス語番組の当時主題歌で、これを聴いた途端なんとも言えない懐かしい気持ちになりました。
あの時分からなかった歌詞が、今では聞き取ることが出来る。5年前の自分と比べて進歩があったことが分かる瞬間でした。嬉しい
たぶん人によって、フレンチ・ポップスなんて・・と言う人もいるだろうけど、機会があれば是非!オススメです。また、これらの曲を聴く時はフランスで昔、様々な愛が繰り広げられその結果、今日の音楽シーンが誕生していること、ゲンズブールの悲しい愛と死が今でもフランス国民には迎え入れられていること、忘れないで下さい。これらの曲を聴くと、自然とそういった歴史までもが思い浮かんでくるのです。
あ〜趣味について書くのは楽しいね長々と読んでいただきありがとうございました
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アポリネールのラブレター
2006.07.24 Monday
私が好きなフランス文学における詩人の中で、ギヨーム・アポリネールという詩人がいます。彼の詩を読むと、いかにも暗くて執着心が深そうで、そこが好き・・・(笑)
アポリネールは1880年、イタリア人の父とポーランド人の母の間にイタリア・ローマで生まれました。正式な名はギヨーム・アルベール・ウラジミール・アレクサンドル・アポリネール・コストロヴィズキーというらしいから、その複雑さと長さには驚きです。代表作である「ミラボー橋(Le Pont Mirabeau)」、「嫌われ者の歌(La Chanson du Mal Aime)」、「ゾーン(Zone)」が納められている詩集は撰集「アルコール」ですが、これは"heteroclite"という言葉で表されるように、ちぐはぐな要素が詰まった詩集です。私も朝のムフタール市場で、古本にて購入しました。たった80サンチーム。それでもこの詩集は私の宝物です
アポリネールの生涯、特に彼の創作活動を大いに刺激した恋愛を物語る上で、画家であったマリー・ローランサン抜きには語ることが出来ません。彼女は画家、デザイナーであり、ピカソの友達であったと言われています。パリ北部のモンマルトルにあったピカソのアトリエ「洗濯船」で、そこに足繁く通っていた数ある芸術家の中、アポリネールとローランサンは劇的に出会いました。1907年のことでした。もっともその時、「劇的に」恋に墜ちたのはアポリネール自身であったでしょう。この時アポリネール27歳、ローランサン22歳の時でした。まだ画家として開花していなかったローランサンを、アポリネールは精力的に励ましたといいます。アポリネールは詩を通し、ローランサンは絵を通して互いの作品を発表し続ける中、芸術家同士の二人はこうして意気投合したのでしょうか。
実際に撰集「アルコール」の中には、ローランサンの名である「マリー」と題付けられた詩が残されていあます。やはりローランサンを詠ったものなのか、以下にその一部を抜粋します。
私はこの詩を初めて読んだ時、アポリネールのローランサンへの想い、愛情の節々が詩に散らばっており、それがどくどくと伝わってくるようで胸打たれました。フランス語原文を見ると、疑問を投げかけているかの様に詩は書かれているので、日本語でも疑問詩に訳すのが正しいと解釈し、手を加えてあります。特に間投詞である "petite fille" や、タイトルの" Marie "には注目して下さい。ローランサンへの想いを詠んだものに代表的なのが、前出の「ミラボー橋」ですが、私がアポリネールの詩が好きな理由のひとつに、彼が静かに暗く、時に執着しローランサンのことを愛したその人柄が挙げられます。二人の恋は6年間続いたと言われていますが、ルーブル美術館でアポリネールの秘書であった人物がモナリザ盗作事件の犯人とされ、アポリネール自身も関与が疑われると(その後アポリネールは一週間程で無事釈放される)、この事件以降、アポリネールはローランサンにより嫉妬深く、執着し愛情を注ぐようになり、二人の恋は終わりを迎えてしまいます。「マリー」と「ミラボー橋」の二作品は、別れから二年後の1913年に、撰集「アルコール」に刊行されました。よく知られていることですが、この撰集「アルコール」は一切句読点を用いないという画期的な手法を用いていて、至るところにその散文的効果が現れています。まるで、物憂げなアポリネールの心境を詠うようです。以下に代表作である「ミラボー橋」を載せたいと思います。
注目して欲しいのは、ここでの接続法の使用法です。接続法の一つに希望法という使われ方があって、「夜よ来い、鐘よ鳴れ。日々は去り、私は残る」と訳す方が私は的確であると考えました。そして「私は残る」の部分の主語 "je"も、これもアポリネール自身、またはミラボー橋と解釈することが可能です。ここには、「私は生き続ける」というアポリネールが楽観的でいようとする暗黙のメッセージが隠されているようでなりません。第一段落の「ミラボー橋の下をセーヌは流れる、また、私達の愛も」という部分も、流れるという 動詞"couler" は、「セーヌ川」と「愛」と主語が二つあるのに対し、単数形で留まっています。余談ですが、マルク・ラヴォワンという人物により詩「ミラボー橋」は一番初めに歌われました。
「ミラボー橋」と「マリー」という二つの、詩という芸術体系でローランサンへの愛を表したアポリネールですが、実際に手紙を書いてマリーへの気持ちを伝えたことも知られています。現在中央大学にて教鞭を取る、伊藤洋司氏によるパリ・ソルボンヌ第三大学での博士論文を後に本に起こした形で、Connaissance et Savoir出版から、その研究論文 " Apollinaire et la lettre d’amour"が出ています。アポリネールが書いたラブレターに触れる際、この本を参考にしました。これによるとアポリネールは、ローランサンの他にもルー、マドレーヌ、それからジャンヌ・イヴ・ブランという三人の女性に対し、主に手紙のやり取りを行っていたとあります。いわゆる文通ですね。マドレーヌという女性とは、1910年代初頭に汽車の中で一度会って以来、文通を始め次に出会ったのは1915年終盤のことであったとあります。また、どの女性に対しても、アポリネールは断つことなく毎日手紙を書き続け、「どんなことでもいいから君にまつわる話を書いて欲しい。それが君の毎日を知ることになるのだから」等熱いメッセージを記しました。当時の決して満足とは言えない郵便事情のせいで、手紙は遅れて届くこともあったといいます。アポリネールはまた、相手の女性に毎日、そして少しでも長く手紙をしたためることを約束させると、相手の女性は書くことがなかった日などその内容に困り、内容の薄い日はカードのみを送ったとあり、これに対しアポリネールは、当然不服だったそう。反対にアポリネールは、一日に二回手紙を書くこともあったらしい。その上「どうしたんだ、最近の君からの手紙は短いものばかりだ。心配している、知らせをくれ」等、躊躇することなく言わば注文を付けたというから相手の女性も困ったことでしょう・・。その姿が目に浮かびます。これは女性だけではなくて、男性読者も目を剥いてしまうのでは・・・。う〜んやっぱり、暗い男だぜ。
ローランサンがアポリネールより受け取ったラブレターは、彼女は老後の楽しみにと大事に取っていたそうです。二人の恋が冷めてしまってから、ローランサンはドイツ人画家と結婚し、ドイツ国籍を取得するとその後スペインへと亡命します。アポリネールの方は終生ローランサンを慕い続け、別れから5年後、38歳の若さでスペイン風邪によりパリにて死去してしまいますが、その枕元には画家であるローランサンが描いた名作、「アポリネールと友人達」が架けられていたそうです。彼はパリ北東部にあるペール・ラシェーズ広場に埋葬されています。ローランサンはアポリネールの死後も画家として大いに活躍しますが、アポリネールが自身の詩「ミラボー橋」で詠った「日々は去り、私は残る」の部分に相反し、残されたのは実にローランサンの方でした。その後ローランサンは1956年、パリで心臓発作のため死去、73歳のことでした。葬儀は彼女の意に添い、アポリネールが眠る墓地で同じく取り行われ、最期にはアポリネールからの手紙を胸に置かれたそうです。昔アポリネールからもらったであろうラブレターです。
アポリネールはまた、文字を絵にしたカリグラムという様式でも詩を発表していますが、彼の芸術様式の一つであったとも言える、彼が書いた幾千ものラブレターはこうして時を越え、ローランサンの元へと届きました。こうした悲しい出来事のせいか、アポリネールの詩はどこか常に憂い気に満ちていて、私を切なくさせる。彼が「ミラボー橋」でも詠っているように、実際にパリ16区にあるミラボー橋を歩く際は、是非このことを思い出してみて下さい。
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アポリネールは1880年、イタリア人の父とポーランド人の母の間にイタリア・ローマで生まれました。正式な名はギヨーム・アルベール・ウラジミール・アレクサンドル・アポリネール・コストロヴィズキーというらしいから、その複雑さと長さには驚きです。代表作である「ミラボー橋(Le Pont Mirabeau)」、「嫌われ者の歌(La Chanson du Mal Aime)」、「ゾーン(Zone)」が納められている詩集は撰集「アルコール」ですが、これは"heteroclite"という言葉で表されるように、ちぐはぐな要素が詰まった詩集です。私も朝のムフタール市場で、古本にて購入しました。たった80サンチーム。それでもこの詩集は私の宝物です
アポリネールの生涯、特に彼の創作活動を大いに刺激した恋愛を物語る上で、画家であったマリー・ローランサン抜きには語ることが出来ません。彼女は画家、デザイナーであり、ピカソの友達であったと言われています。パリ北部のモンマルトルにあったピカソのアトリエ「洗濯船」で、そこに足繁く通っていた数ある芸術家の中、アポリネールとローランサンは劇的に出会いました。1907年のことでした。もっともその時、「劇的に」恋に墜ちたのはアポリネール自身であったでしょう。この時アポリネール27歳、ローランサン22歳の時でした。まだ画家として開花していなかったローランサンを、アポリネールは精力的に励ましたといいます。アポリネールは詩を通し、ローランサンは絵を通して互いの作品を発表し続ける中、芸術家同士の二人はこうして意気投合したのでしょうか。
実際に撰集「アルコール」の中には、ローランサンの名である「マリー」と題付けられた詩が残されていあます。やはりローランサンを詠ったものなのか、以下にその一部を抜粋します。
"Marie"
Vous y dansiez petite fille
Y danserez-vous mere-grand
C’est la maclotte qui sautille
Toutes les cloches sonneront
Quand donc reviendrez-vous Marie
Les masques sont silencieux
Et la musique est si lointaine
Qu’elle semble venir des cieux
Qui je veux vous aimer mais vous aimer a peine
Et mon mal est delicieux
Vous y dansiez petite fille
Y danserez-vous mere-grand
C’est la maclotte qui sautille
Toutes les cloches sonneront
Quand donc reviendrez-vous Marie
Les masques sont silencieux
Et la musique est si lointaine
Qu’elle semble venir des cieux
Qui je veux vous aimer mais vous aimer a peine
Et mon mal est delicieux
****************************************************************************
訳文
(飯島耕一・弥生書房の『アポリネール詩集』を参考にし、
私自身の解釈を一部加えました)
そこで踊っていたの、可愛い少女よ
やがておばあさんが踊るだろうか
はねまわるマクロット・ダンス
鐘がもうじき鳴り渡るだろう
一体いつ帰ってくるのかい、マリー
仮面の人たちは黙っているね
音楽はあんなに遠く
空の奥からやってくるようだ
そうだぼくは君を愛したい けれどもそれはやっとのこと
してぼくの不幸は甘やかだ
**************************************************************************
訳文
(飯島耕一・弥生書房の『アポリネール詩集』を参考にし、
私自身の解釈を一部加えました)
そこで踊っていたの、可愛い少女よ
やがておばあさんが踊るだろうか
はねまわるマクロット・ダンス
鐘がもうじき鳴り渡るだろう
一体いつ帰ってくるのかい、マリー
仮面の人たちは黙っているね
音楽はあんなに遠く
空の奥からやってくるようだ
そうだぼくは君を愛したい けれどもそれはやっとのこと
してぼくの不幸は甘やかだ
**************************************************************************
私はこの詩を初めて読んだ時、アポリネールのローランサンへの想い、愛情の節々が詩に散らばっており、それがどくどくと伝わってくるようで胸打たれました。フランス語原文を見ると、疑問を投げかけているかの様に詩は書かれているので、日本語でも疑問詩に訳すのが正しいと解釈し、手を加えてあります。特に間投詞である "petite fille" や、タイトルの" Marie "には注目して下さい。ローランサンへの想いを詠んだものに代表的なのが、前出の「ミラボー橋」ですが、私がアポリネールの詩が好きな理由のひとつに、彼が静かに暗く、時に執着しローランサンのことを愛したその人柄が挙げられます。二人の恋は6年間続いたと言われていますが、ルーブル美術館でアポリネールの秘書であった人物がモナリザ盗作事件の犯人とされ、アポリネール自身も関与が疑われると(その後アポリネールは一週間程で無事釈放される)、この事件以降、アポリネールはローランサンにより嫉妬深く、執着し愛情を注ぐようになり、二人の恋は終わりを迎えてしまいます。「マリー」と「ミラボー橋」の二作品は、別れから二年後の1913年に、撰集「アルコール」に刊行されました。よく知られていることですが、この撰集「アルコール」は一切句読点を用いないという画期的な手法を用いていて、至るところにその散文的効果が現れています。まるで、物憂げなアポリネールの心境を詠うようです。以下に代表作である「ミラボー橋」を載せたいと思います。
"Le Pont Mirabeau"
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours apres la peine
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
Les mains dans les mains restons face a face
Tandis que sous
le pont de nos bras passe
Des eternels regards l'onde si lasse
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
L'amour s'en va comme cette eau courante
L'amour s'en va
Comme la vie est lente
Et comme l'esperance est violente
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passe
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
***************************************************************************
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours apres la peine
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
Les mains dans les mains restons face a face
Tandis que sous
le pont de nos bras passe
Des eternels regards l'onde si lasse
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
L'amour s'en va comme cette eau courante
L'amour s'en va
Comme la vie est lente
Et comme l'esperance est violente
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passe
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure
***************************************************************************
注目して欲しいのは、ここでの接続法の使用法です。接続法の一つに希望法という使われ方があって、「夜よ来い、鐘よ鳴れ。日々は去り、私は残る」と訳す方が私は的確であると考えました。そして「私は残る」の部分の主語 "je"も、これもアポリネール自身、またはミラボー橋と解釈することが可能です。ここには、「私は生き続ける」というアポリネールが楽観的でいようとする暗黙のメッセージが隠されているようでなりません。第一段落の「ミラボー橋の下をセーヌは流れる、また、私達の愛も」という部分も、流れるという 動詞"couler" は、「セーヌ川」と「愛」と主語が二つあるのに対し、単数形で留まっています。余談ですが、マルク・ラヴォワンという人物により詩「ミラボー橋」は一番初めに歌われました。
「ミラボー橋」と「マリー」という二つの、詩という芸術体系でローランサンへの愛を表したアポリネールですが、実際に手紙を書いてマリーへの気持ちを伝えたことも知られています。現在中央大学にて教鞭を取る、伊藤洋司氏によるパリ・ソルボンヌ第三大学での博士論文を後に本に起こした形で、Connaissance et Savoir出版から、その研究論文 " Apollinaire et la lettre d’amour"が出ています。アポリネールが書いたラブレターに触れる際、この本を参考にしました。これによるとアポリネールは、ローランサンの他にもルー、マドレーヌ、それからジャンヌ・イヴ・ブランという三人の女性に対し、主に手紙のやり取りを行っていたとあります。いわゆる文通ですね。マドレーヌという女性とは、1910年代初頭に汽車の中で一度会って以来、文通を始め次に出会ったのは1915年終盤のことであったとあります。また、どの女性に対しても、アポリネールは断つことなく毎日手紙を書き続け、「どんなことでもいいから君にまつわる話を書いて欲しい。それが君の毎日を知ることになるのだから」等熱いメッセージを記しました。当時の決して満足とは言えない郵便事情のせいで、手紙は遅れて届くこともあったといいます。アポリネールはまた、相手の女性に毎日、そして少しでも長く手紙をしたためることを約束させると、相手の女性は書くことがなかった日などその内容に困り、内容の薄い日はカードのみを送ったとあり、これに対しアポリネールは、当然不服だったそう。反対にアポリネールは、一日に二回手紙を書くこともあったらしい。その上「どうしたんだ、最近の君からの手紙は短いものばかりだ。心配している、知らせをくれ」等、躊躇することなく言わば注文を付けたというから相手の女性も困ったことでしょう・・。その姿が目に浮かびます。これは女性だけではなくて、男性読者も目を剥いてしまうのでは・・・。う〜んやっぱり、暗い男だぜ。
ローランサンがアポリネールより受け取ったラブレターは、彼女は老後の楽しみにと大事に取っていたそうです。二人の恋が冷めてしまってから、ローランサンはドイツ人画家と結婚し、ドイツ国籍を取得するとその後スペインへと亡命します。アポリネールの方は終生ローランサンを慕い続け、別れから5年後、38歳の若さでスペイン風邪によりパリにて死去してしまいますが、その枕元には画家であるローランサンが描いた名作、「アポリネールと友人達」が架けられていたそうです。彼はパリ北東部にあるペール・ラシェーズ広場に埋葬されています。ローランサンはアポリネールの死後も画家として大いに活躍しますが、アポリネールが自身の詩「ミラボー橋」で詠った「日々は去り、私は残る」の部分に相反し、残されたのは実にローランサンの方でした。その後ローランサンは1956年、パリで心臓発作のため死去、73歳のことでした。葬儀は彼女の意に添い、アポリネールが眠る墓地で同じく取り行われ、最期にはアポリネールからの手紙を胸に置かれたそうです。昔アポリネールからもらったであろうラブレターです。
アポリネールはまた、文字を絵にしたカリグラムという様式でも詩を発表していますが、彼の芸術様式の一つであったとも言える、彼が書いた幾千ものラブレターはこうして時を越え、ローランサンの元へと届きました。こうした悲しい出来事のせいか、アポリネールの詩はどこか常に憂い気に満ちていて、私を切なくさせる。彼が「ミラボー橋」でも詠っているように、実際にパリ16区にあるミラボー橋を歩く際は、是非このことを思い出してみて下さい。
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Reconsideration of what is language
2006.07.18 Tuesday
A question of what is language has always been my major curiosity on a field called linguistics. In this book, the author Donna Jo Napoli is trying to analyze this natural wonder of ours through many practical examples which she actually experienced in her real life. We could tell from these instances that language was our daily basis and all the people living on this earth use one or more language everyday. In other words, we human beings can not live without language. We barely notice this fact, however even for small shopping we need language. We should rather appreciate this ability.
We all read through in each chapter that we were hard-wired on language acquisition from a newborn until critical period appears. I used to believe newborns needed to be largely exposed to surrounding conversations of adults; therefore they unconsciously learned to speak when growing up. I also supported the idea that mimicking was most important, but these opinions seem somehow wrong according to what Napoli insists. She claimed that language acquisition started in the womb and eventually around seven months of gestation, the auditory system is formed. So it functions well that fetuses can already listen to the outside world from staying in the womb. Also there is a study that children acquire speech at the same rate as those who were exposed to large amounts of motherese. The literature on first language acquisition points to their first birthday as a time when most children start to produce words, and the number of those words approximate hundreds. Then at some point during their second year on life, they move into creating a two-word phase. By two years old, children can now produce thousands of words, and by the time they are four years old, they will have obtained all the elements of language. That is to say, babies may be much sharper for developing their first language more than we adults assume. This was an interesting and a surprising fact to me. Those who already acquired language have to teach babies how to speak, and I hope this cycle will continue all the age no matter what happens during the time of child care, such as child abuse that we unfortunately see on TV today. As I pointed out, language is the most necessary and important basis for human, and moreover it is even a part of human rights.
I mentioned in the latest paper, but I felt often language seemed to me a sort of signs while I was in France. At that time I was completely concentrated to acquire French, which would be my third language. I frequently got this strange feeling when listening to people around talking, as if I was hearing signs, not language. To acquire especially a foreign language aside from a mother tongue which we already have, I suppose sometimes we have to make ourselves all clear and almost zero on language acquisition. Once we know the language whatsoever, we directly can tell the whole meaning without consideration. However, if we hear a total Greek, we just can’t. So that alien language could be a collection of sign if we put it in words. Why does it occur? Why do I feel this way? I finally reached to a conclusion by reading this book that language added up to arbitrariness of language. Except the historical origin of each word, “chaussures,” for example, shoes in French, means nothing at all by its sound. It doesn’t make us guess the meaning of the word, and we simply can’t. In any given word in any spoken language, the correspondence between sound and meaning is typically arbitrary because for most words no other possibility arises, as Napoli demonstrated. For my case as well, the arbitrariness of language made me feel such a strange way. Truly, there is no relation between what we hear and what we know. If I wished, I could have considered “signs” as animals or sugar.
Reconsidering language, it is wonderful. We have this ability to acquire them without any formal instruction in it, and we are originally set up to learn it. We can let language involved in some processes, and this is cognitive as the author represents. Nature endowed us with important parts on language acquisition as well, like grammar. Even for cases that we would like to learn some foreign language, it wouldn’t be so difficult for anyone who has already acquired a first language, because we knew linguistic parameters, making the various tasks easier. The first language served us as the model, and we also can learn from making grammatical mistakes of the target language. Besides, human language is very creative so we can say anything but hurting people hopefully. We would like to send people a sense of purpose, that is an essential role of communication, and for it we have language. The author cast us a new query whether animals possess language, but I would say “why not?” All the living species need a way to communicate each other, and that’s why each has its own manner like bee dancing, which was illustrated in Chapter 5. Maybe scientists or biologists disagree, however this idea wouldn’t be so bad, either. We can not prove, nor disprove it. In addition, I was highly convinced by the fact that most of renowned linguists in the world were also activists of human rights problems. This sounds very reasonable because people lacking language ability for several reasons do suffer in their daily life, shopping to administration. I do wish that they will be fully covered with appropriate services instead of speaking or hearing ability. Sign language might be a help, but I have to admit that it is not everyone who can handle sign language. Now we can presume that language is actually very precious. Then, I hope a healthy usage there.
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We all read through in each chapter that we were hard-wired on language acquisition from a newborn until critical period appears. I used to believe newborns needed to be largely exposed to surrounding conversations of adults; therefore they unconsciously learned to speak when growing up. I also supported the idea that mimicking was most important, but these opinions seem somehow wrong according to what Napoli insists. She claimed that language acquisition started in the womb and eventually around seven months of gestation, the auditory system is formed. So it functions well that fetuses can already listen to the outside world from staying in the womb. Also there is a study that children acquire speech at the same rate as those who were exposed to large amounts of motherese. The literature on first language acquisition points to their first birthday as a time when most children start to produce words, and the number of those words approximate hundreds. Then at some point during their second year on life, they move into creating a two-word phase. By two years old, children can now produce thousands of words, and by the time they are four years old, they will have obtained all the elements of language. That is to say, babies may be much sharper for developing their first language more than we adults assume. This was an interesting and a surprising fact to me. Those who already acquired language have to teach babies how to speak, and I hope this cycle will continue all the age no matter what happens during the time of child care, such as child abuse that we unfortunately see on TV today. As I pointed out, language is the most necessary and important basis for human, and moreover it is even a part of human rights.
I mentioned in the latest paper, but I felt often language seemed to me a sort of signs while I was in France. At that time I was completely concentrated to acquire French, which would be my third language. I frequently got this strange feeling when listening to people around talking, as if I was hearing signs, not language. To acquire especially a foreign language aside from a mother tongue which we already have, I suppose sometimes we have to make ourselves all clear and almost zero on language acquisition. Once we know the language whatsoever, we directly can tell the whole meaning without consideration. However, if we hear a total Greek, we just can’t. So that alien language could be a collection of sign if we put it in words. Why does it occur? Why do I feel this way? I finally reached to a conclusion by reading this book that language added up to arbitrariness of language. Except the historical origin of each word, “chaussures,” for example, shoes in French, means nothing at all by its sound. It doesn’t make us guess the meaning of the word, and we simply can’t. In any given word in any spoken language, the correspondence between sound and meaning is typically arbitrary because for most words no other possibility arises, as Napoli demonstrated. For my case as well, the arbitrariness of language made me feel such a strange way. Truly, there is no relation between what we hear and what we know. If I wished, I could have considered “signs” as animals or sugar.
Reconsidering language, it is wonderful. We have this ability to acquire them without any formal instruction in it, and we are originally set up to learn it. We can let language involved in some processes, and this is cognitive as the author represents. Nature endowed us with important parts on language acquisition as well, like grammar. Even for cases that we would like to learn some foreign language, it wouldn’t be so difficult for anyone who has already acquired a first language, because we knew linguistic parameters, making the various tasks easier. The first language served us as the model, and we also can learn from making grammatical mistakes of the target language. Besides, human language is very creative so we can say anything but hurting people hopefully. We would like to send people a sense of purpose, that is an essential role of communication, and for it we have language. The author cast us a new query whether animals possess language, but I would say “why not?” All the living species need a way to communicate each other, and that’s why each has its own manner like bee dancing, which was illustrated in Chapter 5. Maybe scientists or biologists disagree, however this idea wouldn’t be so bad, either. We can not prove, nor disprove it. In addition, I was highly convinced by the fact that most of renowned linguists in the world were also activists of human rights problems. This sounds very reasonable because people lacking language ability for several reasons do suffer in their daily life, shopping to administration. I do wish that they will be fully covered with appropriate services instead of speaking or hearing ability. Sign language might be a help, but I have to admit that it is not everyone who can handle sign language. Now we can presume that language is actually very precious. Then, I hope a healthy usage there.
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犯されたタブー
2006.07.11 Tuesday
いやぁ・・フランス負けてしまいましたね。もちろん、W杯の話です。
あまり、と言うか全然サッカーに興味のなかった私でも、決勝戦は朝5時まで観ていました。だってフランスが勝ってくれないと大学の先生を始め講師の機嫌が悪くなるんだもん・・
そしてジダン!
今W杯が引退試合となってしまった彼ですが、朝起きてびっくり。何がって頭突きのニュース。
ダイジェストで問題のシーンは見たけれど、どう考えてもアクシデントとは思えないし、意図したことだとしか見受けられない。
真相解明が待たれるし、かと言って気になる私は多方面に耳を向けていると、やっぱりフランス人から情報が飛び込んできました。
知ってる人も多いと思うけど、ジダンはアルジェリア移民二世であり、自身はマルセイユの生まれです。フランスにおけるアラブ系移民、もしくはアラブ人(アラビア語を母国語とする民族)との問題は、北アフリカでの殖民に失敗したフランスにとって過去の傷跡から自ずと生まれ出た結果であり、現在でもフランス人は、あまりアルジェリア戦争に関して口を開こうとはしません。
要するに人々の意識間でタブー化しているこの問題に、某イタリア人プレーヤー(名前すら覚える気なし)は堂々と踏み入り、その結果ジダンを怒らせてしまった。
「アルジェリアのテロリスト」、「姉は売春婦」等の言葉が投げかけられたそうです。
今日あったフランス語会話の授業で先生が言っていた。「アラブ人は自分達、そして家族に対する侮辱は絶対に許すことが出来ない」と。人種差別を含むこの発言は、W杯にふさわしいものではないし、FIFAは然るべき対応・措置を取るべきです。世界中からプレーヤーが集まるこのお祭りに、この様な身勝手な発言があってよいのでしょうか。許されてはならないと思います。また、どうして日本のマスメディアがこの問題を追及しないのか、普段日本人にはあまり馴染みのないアラブ問題をもっと探ろうとしないのか、私には不思議でなりません。どのレポーターも真相が早く知りたいと言わんばかりで、率先して調べようとも専門家を呼ぼうともしない。私はまた、ピッチでジダンが犯してしまったこのタブー、つまり退場行為を茶化す動きの方が蔓延するのではないかと強く懸念しています。そんなことであってはならない、ジダン自身きっと、退場のリスクを念頭に置いた上行ったのだ。この頭突き行為はもっと、深いデリケートな問題をはらんでいる。
ジダンに感謝と、不憫に思う心でいっぱいです・・。
あまり、と言うか全然サッカーに興味のなかった私でも、決勝戦は朝5時まで観ていました。だってフランスが勝ってくれないと大学の先生を始め講師の機嫌が悪くなるんだもん・・
そしてジダン!
今W杯が引退試合となってしまった彼ですが、朝起きてびっくり。何がって頭突きのニュース。
ダイジェストで問題のシーンは見たけれど、どう考えてもアクシデントとは思えないし、意図したことだとしか見受けられない。
真相解明が待たれるし、かと言って気になる私は多方面に耳を向けていると、やっぱりフランス人から情報が飛び込んできました。
知ってる人も多いと思うけど、ジダンはアルジェリア移民二世であり、自身はマルセイユの生まれです。フランスにおけるアラブ系移民、もしくはアラブ人(アラビア語を母国語とする民族)との問題は、北アフリカでの殖民に失敗したフランスにとって過去の傷跡から自ずと生まれ出た結果であり、現在でもフランス人は、あまりアルジェリア戦争に関して口を開こうとはしません。
要するに人々の意識間でタブー化しているこの問題に、某イタリア人プレーヤー(名前すら覚える気なし)は堂々と踏み入り、その結果ジダンを怒らせてしまった。
「アルジェリアのテロリスト」、「姉は売春婦」等の言葉が投げかけられたそうです。
今日あったフランス語会話の授業で先生が言っていた。「アラブ人は自分達、そして家族に対する侮辱は絶対に許すことが出来ない」と。人種差別を含むこの発言は、W杯にふさわしいものではないし、FIFAは然るべき対応・措置を取るべきです。世界中からプレーヤーが集まるこのお祭りに、この様な身勝手な発言があってよいのでしょうか。許されてはならないと思います。また、どうして日本のマスメディアがこの問題を追及しないのか、普段日本人にはあまり馴染みのないアラブ問題をもっと探ろうとしないのか、私には不思議でなりません。どのレポーターも真相が早く知りたいと言わんばかりで、率先して調べようとも専門家を呼ぼうともしない。私はまた、ピッチでジダンが犯してしまったこのタブー、つまり退場行為を茶化す動きの方が蔓延するのではないかと強く懸念しています。そんなことであってはならない、ジダン自身きっと、退場のリスクを念頭に置いた上行ったのだ。この頭突き行為はもっと、深いデリケートな問題をはらんでいる。
ジダンに感謝と、不憫に思う心でいっぱいです・・。
ちょっと、気分転換
2006.07.02 Sunday
どうも!最近職場のフランス人に勧められリンゴ酢を飲むのにハマっている私です(笑)
このblogを始めて初めて、テンプレートを変えてみました。猫がいます。
ちょっとかわい過ぎでしょうか?
落ち着かないようならまたすぐ戻そうと思っています・・。
前々からの夢だったのですが、このblogを出版したいなぁと考えています。
現在校正等を行っています。昔書いた文章の稚拙さに愕然としています。。
興味のある方、「是非・・!」と背中を押してくださる方がもし、もしいてくださるのなら、嬉しいです。
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このblogを始めて初めて、テンプレートを変えてみました。猫がいます。
ちょっとかわい過ぎでしょうか?
落ち着かないようならまたすぐ戻そうと思っています・・。
前々からの夢だったのですが、このblogを出版したいなぁと考えています。
現在校正等を行っています。昔書いた文章の稚拙さに愕然としています。。
興味のある方、「是非・・!」と背中を押してくださる方がもし、もしいてくださるのなら、嬉しいです。
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