Previously, mari's paris life


"La France traverse une phase de vulgarite. Paris, centre et rayonnement de betise universelle" - C. Baudelaire :p
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批評し合う文化
いつ頃から言われるようになったのだろう、明確には覚えていない。ただ、フランスから帰ってきた辺りか、あの彼の影響か、私は「皮肉たれ」と家族から批判をくらっている(この「皮肉たれ」とは、もちろん「皮肉屋」と「文句たれ」の複合語である)。



こんな一個人の性格における傾向まで、フランスのせいにしては可哀想かもしれない。しかし、私が夕食のおかずに対してや、また、ちょっとでも虫に食われた形跡のある野菜の葉を目にすると、いてもたってもいられず、つい「批評」してしまうのは、快いものではないのは確かである。異なる他を認めることが、真のコミュニケーション、ましてや異文化コミュニケーションにおける基盤であると信じているのに、異なるものを批判していては、何も前進しまい。いささか(死語)、私の、このつい「批評」してしまう性格もいい加減どうにかせねばなるまい。そんな風に考えていたら、先日大学の先生のお家で、食事に招かれた。お邪魔したのは、日本人二人(私と男の先輩)とフランス人の男の子だった。



先生は、有難いことにフランス風の食事を用意してくれていた。メインはなんと、懐かしいそば粉のクレープ、ガレットだった。図々しくも、ハム、卵、チーズとコンプレにしてもらった。自然と、モンパルナスの路地に点在しているクレープ屋を思い出した。それぐらい、とってもおいしかった。



私は苺と、友達にもらった昨年のボジョレー・ヌーボーを持参したのだが(N村くんどうもありがとう、ボジョレーおいしかったです、好きになりました)、この他にもワインやビール、ガレットだからとシードルまで用意してもらっていた。先生は、フランスのシードルを探してあちこち見てまわってくれたそうだが、フランスのシードルは見つからず、あったのはニッカのものだった。



それでも、ガレットにはシードルでというブルターニュの伝統習慣に倣って、たとえニッカのシードルでも、シードルを探しまわり、用意してくれたことが嬉しい。私達はお礼を言って、まずは一本、その小さな瓶を開けてみた。初めに口にしたのは私だった。次に、フランス人の男の子が飲む。私達は黙った。決して、不味いのではない。断じてない。ただ、フランスのシードルとは味が異なるだけだ。私は正直に言っ(てしまっ)た。"Si, c'est bon, mais je peux dire que c'est different."と。続いてその彼が言う。いやむしろ、言葉に詰まっている。「まぁ、フランスのシードルの方が、一般的にもっとフルーティーなのかもしれないですね」と、私はこの間を埋めるべく、言うに迫られた。彼はやっと一言、「これ全然お酒入ってないですか?」。



先生も、「あら、そう、お酒入ってなかった?まぁやっぱり、日本のじゃねぇ・・」などと言っている。その時私は悟った。フランス文化とは、批評し合う関係に成立しているのだと。Aが買ってきたものに対し、Bが批評する。「まずい」でも「味がしない」でも何でもいい。それに対し、Aは気分を害したりしない。自分を批評されているわけではないからだ。Aが買ってきたそのものに、A自身は含蓄せず、そのものは、単にAが「買う」という、経済行為を行ったに過ぎないからだ。



それからしばらくして、話が盛り上がる中、フランス人の彼が、最近「王様のレストラン」という、三谷幸喜脚本の古いドラマを見たんだと話し出した。確か、私が小学生の頃放送していたものである。私は幼かったし、このドラマがけっこう好きだったし、その後再放送されても夢中になって見た覚えがあったので、つい口を挟んだ。「あっ、見た!?いいよねぇ、あのドラマ!」。



すると、彼は苦い顔。戸惑いの表情さえ見せる。横では、隣に座っている先輩が、「言えよ、フランス人がそういう話を切り出したってことはさ、"nul(つまらない)"ってことだろ、言っちゃえよ」と野次を入れている。先輩の予感は的中、やはり彼は、「王様のレストラン」のどこが面白いのか到底理解できず、劇中フランス人が登場することも含めて、「つまらな過ぎた」と言いたかったらしい。そこに私が、つい興奮して口を挟んでしまったものだから、最初から批判するつもりであった彼のペースを、崩してしまったのだ。



何も、フランス人が口にすることすべて、批判に渡るのだと言いたいのではない。ただ、批評・批判し合うことが、日本と違って何ら嫌味を持たず、漠然と行われるということだ。批評し合うことで、より良いものが生まれていくという、もしかすると希望をも含んでいるのかもしれない。私は常日頃、母や妹から「つくづく批評的になった」と口を酸っぱくして言われるが、この夜の食事会で、確信した。フランスにおける批評行為は、何ら悪意のないものだと。



しかし、ここ日本では実作と批評が相重なって存在しているのが事実だし、狭い私の家族間では、そう迎え入れられたものではないだろう。つい批評してしまうこの悪癖も、上手く使い分けようと、クレープを口に運びながら誓った。


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