Previously, mari's paris life


"La France traverse une phase de vulgarite. Paris, centre et rayonnement de betise universelle" - C. Baudelaire :p
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人は死に向かって生きる
実家に帰ってきた。学生(とのんびりし過ぎた夏)を終えて、8月いっぱい、真面目に働いた、ご褒美として。実家には、母方の祖母が来ている。今年で97歳。彼女が、もんぺ一枚で、必死の思いで北朝鮮から帰ってきてくれたおかげで、私の母がいて、今、この世に私という生がある。まったく運命とは不思議なものだ。一年程会っていなかった間に、祖母はまた小さくなり、今では150センチあった身長も、142センチしかないと、笑って言う。輝く白髪で、それも椿油を塗っていて、シミなんてひとつもないきれいな白い肌で(昔は紫外線の量が、よっぽど少なかったのだろうか・・)、とても美しい。私と妹の手を力強く握っては、綺麗だ綺麗だと言うけれど、それは私達が、戦争も苦労も何ひとつ経験せず生きてきた、いわば恥の歴史であって、シワだらけでも、肉が厚く、今までも辛苦をそこに滲ませているような、祖母の手には、程遠いと、ただただ思い知るのであった。百姓をしていたり、洗濯板を使っていた時代と違って、私達は、機械ひとつ、ボタンひとつで何でも動いてしまう、楽な時代に生きているのだ。



祖母を見ていると、お年寄りは、独自の時間軸で生きていると思う。今風に言うと、マイペース。思うがままに、例えば夏物や、要らなくなったものの整理などを始めては、延々としている。そんな祖母を見て、母は「飽きない、面白いねぇ」と言う。私も賛成だ。きっと、自分なりに「こだわり」があるのだろう。こう畳まないと気が済まないとか、こう織らないと気が済まないとか。祖母は、食事を終えるごとに、食べることに疲れてしまうのか、すぐにベッドに横になってしまうので、私が介抱しに、一緒に行ってやると、決まって、「真理ちゃんは優しいねぇ・・。幸せだ、ありがとう、ありがとう・・」と、私の手を握り、祈るように言うのであった。そして、そんなことを言われると、私は居たたまれないので、元来涙もろい上、すぐに涙が、じわーっと出てきてしまう。「当然のことですよ、これは順番ですから」と言って聞かせても、彼女は、97歳という高齢からは思いもつかない強い力で、私の手を握り締めてくれるのだ。私は優しい人間なんかではない。ただ、祖母のことが大好きで、今までしてやれなかった孝行を、この、限られた数日間で、少しでもしてやれたらと、言わば期限付きのものだ・・。なんて申し訳ないのだろう。もっと早く、一緒に住めたらと、いつも願っていた。そしてその願いが、私が東京に住み出して一年、皮肉にも、距離を経て、やっと叶ったのである。「帰りました」と、おみやげの、千疋やのフルーツゼリーを持って部屋に寄ると、祖母は、コンパクトに正座したまま、三つ指ついて、「ありがとうございました」と言わんばかりに、深々とお礼をしてくれたのである。私はその時思い出した。彼女のように、正座したまま深々とお礼をする日本の挨拶形式を、すっかり忘れていたのだ・・。祖母の家に行くと、いつも決まって、こうだったというのに・・。こうやって少しずつ、文化や伝統、習慣などが、その国からすり落ち、消えていくのだろうと漠然と感じた。



それにしても、祖母の物事への好奇心、外国への抵抗の無さには感心させられるばかりである。「フランスのマダムはシックでしょ」、「イタリアはいい国らしいねぇ、行ったことがある?」、「このスプーンは洒落たデザインだから、スマートだから、フランスのでしょ」、「ベッドをセットしてくれてありがとうねぇ」、「トップコードを塗るときれいになるでしょ」、「私は死ぬまでに、一度、ワインというお酒が飲んでみたくてねぇ・・(彼女は日本酒を少し嗜む、そして今夜、念願のまずは白ワインを「舐めた」。)」などなど、彼女の口から出る、外来語の数々には、驚かされるばかりである。女学校で英語を習った、ましてや英語劇までしたというが、それから一体、何十年の月日が経っているのだろう。こんなにも、英単語を口にし(「真理ちゃんのベイビーはまだかねぇ!」と言い放ったのだ!)、ましてや異文化に一切の抵抗がない・・・私は嬉しかった。



そして、そんな高齢の祖母を見ていると、人は、どんなに望まれず生まれてきたとしても、ひとたびこの世に生を受けた限り、「生きる」宿命があるのだと、人は、ゆっくりと、時に足早に、「死」に向かって生きているのだということを、はっきりと認識させられる。私は甘ったれだ。一人東京で、働き、自分の人生だけで精いっぱいで、辛いとこぼしているのに、この明るい好奇心旺盛な97歳の祖母ときたら、そんな都会で疲れ切った私にまで、「真理ちゃん、幸せになりなさい、結婚は女の幸せだから。幸せになりなさい」と言って聞かせてくれるのだ。明治生まれの祖母にとって、結婚が一番のプライオリティーであったのは言うまでもないだろう(祖母が結婚前の7年間、いわばOLのはしりであったことを知ったのは、今回の帰省であった・・・。そして、祖父からもらった、ラブレター、また、初恋の思い出について語ってくれたのも、今回が初めてであった・・!昔は板チョコを半分ぽきっと折って、渡してくれたら、食べた後はキスをすることになっていたらしい・・!けれど祖母は、その時キスはしなかったんだって)。





しっかり、力強く生きなければならない。この世に生を受けた限り。私は自分を恥じた。そして、私はこの目の前にある、「人は死に向かって生きる」らしいという事実と、「誰かの死」、が、怖くて仕方ない。なんて弱いのだろう。そして、今を精一杯生きているか?相変わらず自問自答している。私は年末に、また帰ってくる時にも、こうして、変わらず、祖母に会いたい。一緒に年を越したい。まだまだ、ファッションの話など(そう、彼女はとてもおしゃれに敏感・・!)、したい話がいっぱいある。だからどうか、暗いことを口に出さないで欲しい。神様が与えた、命ある限りの命を、精一杯全うし、私を笑顔にして欲しい。97歳から力と勇気をもらっている、24歳なんて・・!



どうかお願いだ。父方の祖父母が亡くなって、私の父母しかいなくなったこの家で、ゆっくりと過ごして欲しい。少しでも、家族の温かさに触れ、元気になるといい。いつまでも、朝起きれば顔を洗い、化粧をし、「エチケットだよ」と、紅を引く祖母であって欲しい。出来ればまた着物も来て欲しい。祖母は相当の、着物美人であった。生涯の過半数以上を、着物を着て生きた。祖父も、着物を買うのは何もうるさく言わなかったという。私達現代人は、彼女のように長寿を生きられるだろうか?郷里・熊本から送ってもらった野菜を食べて、愕然とした。・・野菜本来の味がすると思った。祖母は、相次ぐ食の偽装にまつわるニュースを読んで、「みんな自分達の食べる野菜くらい、家の前の畑家で作って食べるようじゃなけいけん」と言っていた。私達の世代では、祖母のように生きることはむずかしいのかもしれない。けれど祖母本人には・・・・。



彼女自身が言うように、私達の未来の旦那様、ましてやひ孫を見るまで、100歳まで生きてもらわねばならぬ。生きていて欲しい。12人の兄弟も皆死に、姪が80歳という中で、どうして私ばかり長生きするの・・と言うが、どうかお願いだ。いつまでも、感覚の若く、高らかに笑う、明るい、祖母でいて欲しい。そして私は、前々から言っているけれど、この明治生まれの素敵な祖母の名前を、自分の娘が生まれたら、ミドルネームにして付けたいと思っている。母には、「そんなの先祖帰りするって言うでしょ!」と反対されているが、ミドルネームなら・・(と企んでいる)。きっとフランス語でも、素敵に響くはずだ。祖母よ、私はあなたが大好きです。あなたを見ていると、自然に湧いてくる気持ち、これが愛だと思う。「おばぁちゃん大好き!」と言ったらば、「私も真理ちゃんが好き好き」と言ってくれ、力強く抱き締め、額を優しく撫でてくれるようなあなたが、私の人生の、最終目標です。
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