Previously, mari's paris life


"La France traverse une phase de vulgarite. Paris, centre et rayonnement de betise universelle" - C. Baudelaire :p
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取り急ぎ。
 超くだらない内容です!


妹の彼、ぽむくん(婚約者か、コホン)が、


「前回まりちゃんに、"J'en ai marre de te voir en pants!(もうパンツ姿の○○見るのうんざりよー!!)"って言われちゃったから、(来月からまた日本に来るにあたって) 何かパンツに一癖加えないとなーー」と言っていたらしい(笑)!!



妹情報では、「Mariって刺繍でもするかもね」とのことだが・・・別に一癖加えんでいい!! 加えるな(笑)!!!



それから妹は日本で私と一緒にいるから全然さみしくない。のに対して、ぽむくんは一人パリでさみしく待機中(?)なので、


「まりちゃんにパリに来て欲しいなーー。そしたら○○(妹)もこっちにいればいいし、傍にいられるし、○○(妹)もまりちゃんがいてハッピーだし全部解決じゃん」

と言っていたらしい。なんて短絡的な・・・・・・。



だったらビザ出してよっっ なーんてね・・・・
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時々思い出す人
 昔、アメリカにホームステイに行った時、お世話になっている家族と共に、夕食の買い物へ、近くのビオスーパーへ行ったら、一人の従業員を紹介された。彼らはそこのスーパーの常連なので、顔見知りだったんだと思う。彼は、眼鏡をかけ、食料を積んだ細長い、高いカートを押していた。清潔な、知的な身なりが印象的だった。きっちりと、カーキのエプロンをかけ、カートの隅から顔を出し、挨拶している。お世話になった家の父親が、「彼は○○(名前は忘れてしまった)、彼は作家になりたいんだ」と言って教えてくれたのを覚えてる。そんな、どこにでもあるスーパーマーケットでのありふれた出会いだけど、それでもあれからもう十年も経って、未だに折を見て、あの男性のことを忘れないのは、きっと、私も書きたいからで、彼にとって、書くということが人生におけるプライオリティ、またそこから、彼自身、一番の充足感と幸福を感じられるのであって、けれど、なかなかペン一本で身を立てるのは難しいので、時間に融通の利く、スーパーでの仕事を選び、けれど怠けることなく、生活のために働いているのだと思った、その姿が忘れられなかったからだ。

帰りの車の中、「○○は作家になりたいんだよ」と聞かされた時、とっさに、あれだけ知的で静かな、思慮に溢れた瞳をしている人だから、なれないはずはないと思い、よくそんなことが言えたと思うけど、「作家の目をしているわ、きっとなると思う」と私は言った。高校生だったあの頃も、26歳になった今でも、作家と呼ばれる人に会ったこともなければその目を見たこともないくせに、よくあんなことが言えたと思うけど、その人は、それだけの資質が目に溢れているようだったのだ。それが印象的でよく覚えているし、必然的に、自分の中から咄嗟に出てきたコメントであったと思う。

あれから十年が経ち、普段からあまりアメリカ文学になじみがないのと、意識してないのとでほんとうにあの彼が、その後作家として身を立てることが出来たのか、今は何をしているのか、まだあのスーパーで働いているのか、ふっと思い出すことがあるけれど、名前も覚えていないし、覚えているのはあの風貌、瞳だけで、探す術もない。

今、私は日本で、東京で、たった一人、私は何がしたいのか、もしまた会社に入るのならば、一体何がしたいのか、何がしたいからその会社に入りたいのか、何を成し遂げたいのか、なんでその会社じゃなきゃならないのか、そんなことを自問自答する日々を続けている。今時新卒かと見間違う、非生産的な作業だ。

そして、そんなことをうんうんと、一人で黙々と考える度に、これと言って自分が成し遂げたいことがないことに気付き、漠然とする。

なんという親不孝娘だろう。大学にも行かせてもらい、フランスにも行かせてもらい、こうして26にもなったというのに、今時新卒かと見間違うような質問しか出てこない、それも、その答えが依然分からないというのだから。

前の会社で働いている時、お昼休みでも、業務中のちょっとした雑談の際にも、他の皆が、一同に、今度の新商品や他社の製品、話題のビジネスモデルやプラットフォームについていち早く情報を得て、議論している姿を見ると、みんなどうしてこういうことを知っているのか、どこから出てくるのか、不思議でたまらなかった。

話題に追いつかなきゃ、情報に追いつかなきゃという焦りはある。事実、そうして自分でも、自分なりに調べてみたり、意識して記事を読むようにして議論に参加することもあった。けれど、それはほんとうに自分が知りたいこと、知っていたいこと、興味のあること、ましてや成し遂げたいこととは到底離れていた。その度に、自分は怠慢で、社会の動きにてんで興味なく、会社員には向いていないと、つくづく思い知らされた。自分には、もっと他で、成し遂げたい夢がある。それが、どんな絵空事に見えても、「書く」ことだった。正しくは「書くことだけで身を立てることが出来る身分に就くこと」だった。

自分を過大評価するつもりもないし、特別視するつもりもないけれど、思えばいつも、子どもの頃からまわりの子と自分がいつも、なんとなく、けれど決定的に違うことを意識していたし、その理由は分からない。それは日本の教育システムが進めば進む程、その色を一層濃くすれば濃くする程、違いは明らかになり、その度に訳の分からない自分を憎んだ。

まだ幼稚園の頃、本を読む度、自分の中でのもう一人の自分が音読をする。そんな、心の中の声が聞こえた。色を付ける、感情を付ける。まるで心の中で、ちょっとした演劇が繰り広げられるみたいに。「これってみんなそうだよねぇ?」 周りの友達に聞いてみると、「何言ってるの、そんな声なんてないよ、バカみたい」と笑われた。

言葉には、文字にはその文字固有の色が付いて見える。これは共感覚と呼ばれるものだとつい最近知った。てっきり、みんなそうなのだと思ってた。

ものには性格が、顔があるように見える。空気には色があって、においがある。

本を読んだら感情移入せずにいられなくって、何を感じたか、文字にして書き表さないと気が済まない。CMでも映画でもドラマでも観たら、感情が高ぶり、描かれている無常に、泣かずにはいられない。

素通りすることも出来るのに、いちいち感情移入してしまう自分が面倒臭くて仕方ない、でも、ずっとこうなのだから仕方ない。こういう風にしてずっと生きてきた。ずっと、自分は変だと思ってた。変わってる、何か違うと思ってた。理由は分からない。けれど、いちいち傷付きやすくて、感情的なのは、一体何から来るものなのだろう。


会社員の時、自分の知識のなさや怠慢、それ以上に自分を苦しめ、苦労したのは、必要じゃない程、いちいち相手の発した発言、言葉のひとつひとつ、節々に、どうしてこの人はこんな言葉を使うのだろう、どうしてこの語尾を付けるのだろう、彼の真意は何なのだろうと考え、立ち止まってしまうことだった。
その会社に入ってこれがしたい、これを学びたい、そうすることでこれを達成したい。これが出来るから御社に入りたい。そういった、入社面接でのルールと言われることが私の中から全く出てこない。自分の中の思考・ことばデータベースに、そういった答えがないのだ・・・。模範解答を知り、その通り答える方がよっぽど早い、スムースだ。

けれど、作家になるという夢を、万が一叶えられたとして、達成出来たら、それで何がしたい、そこから何が伝えたいっていうのは確固としてある。すらすらと出てくる。私は、日本とフランスが好きな私の特性を持って、こういう考え方もあるよ、こういう生き方もあるよってことを、世間に伝えたい。日本をよくしたい。私達は仕事をするためだけのロボットに生まれたわけじゃない、人間だから出来ること、人間だから考え、ことばにして伝えることが出来る、こういうことが出来るよ、ってことを、世間に広めたい。もっと、ことばの重要性を伝えたい、叫びたい。この違いは何なのだろう・・・。

ほんとうに、幸い、両親がこういう私の特性を一番に理解してくれてるからよかった。もし、「何バカなこと言ってるの!社会人としてきちんと働きなさい!」と言うタイプの人であったら、今頃私はもっと苦しくて仕方なかったと思う。一歩間違えれば、ニートや引きこもりにもなりかねない私であるのに、「書きなさい、マリちゃんにはその才能があるから」と、私がこうして迷う度、また、幼少の頃からこうして励ましてくれた両親には、今、最大の親不孝をしていると思う。ほんとうに申し訳ない。

そして今、まわりにいる友達も、私という特性を理解してくれ、「マリちゃんはマリちゃんのままでいいのさ」、「マリが何してても不思議じゃないよ、作家目指してるって言ったってさ」と軽く言ってくれる子ばかりでよかった。ほんとうに感謝している。


私は何のために生まれてきたのか・・。書くという夢を叶えたい。


今後の身の振りに関しては、改めて考えることにする・・・。
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