Previously, mari's paris life


"La France traverse une phase de vulgarite. Paris, centre et rayonnement de betise universelle" - C. Baudelaire :p
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子どもの成長は、なんと早いものか



昨日、二週間ぶりに会った姪っ子。この日、ノルマンディーからフランスのおじいちゃんが来ていたので、姪っ子は私なんてそっちのけで、おじいちゃんに夢中だったけど(悲しくなんかなかったさー!!)、ちょっと見ない間に、この成長っぷり。。


いや、前からもう歩いてたけどさ。赤ちゃんっぽさがなくなって、もうすっかり幼児の風貌、いや、れっきとした小さなフランス女の風格ばっちりなのである。


木漏れ日が綺麗だったのと、歩く後ろ姿が愛らしかったので、思わず撮った。パリに帰ってきたから、また夕方迎えに行くよ〜〜〜



フランスで働くの巻 comments(0)
I no longer belong here

前置きもなく始めるけれども。ひゃー、またも時間が経ってしまった。しかし!こう見えても、私は2月は友達に頼まれた翻訳の仕事をし、3月は中旬から、二週間ほど日本語教師の養成講座に通ったりと、なかなか真面目に、忙しくしておったのだよ。そしてもちろん、その合間には、平行して習字のお稽古へ。早く三段くらいになりたいと思うものの、なかなか一人では辿り着けないわけで、もどかしい。それを解決してくれるのは、練習あるのみであります。

 

 

そして実は、昨日までの約二週間ほど、日本へ帰っていた。やっと心身ともに落ち着いてきたということもあり、4月は時間がありそうだったのと、今年の夏は帰れないことが分かっていたので、これを逃すと、次は年末。それはちょっと遠いなぁ、と思い。思い立ったが吉日で、一ヶ月前に予約を取ると、旅立つ日はあっという間にやって来た。こんなにも早く、『あ、帰ろう!』と決めたこと、ないってぐらい。改めて、自分のフットワークの軽さというか、無計画さに、我ながら、ブラボー。

 

 

一緒に暮らしているコーチは私がいない間、やはり寂しかったようで、『もう、私一人の身じゃないのね』とまるで妊婦のように感傷に浸ってみたり。別々に暮らしていればどうってことなくても、もうすっかり二人での暮らしが出来上がっている中で、どちらか片方が二週間もいなくなると、相手の不在というのは大きいものなのだろう。旅立ってからというもの、ほぼ毎晩チクチク言われたけれど、それでも快く送り出してくれたので、感謝している。

 

 

行きだけ成田に着いて、初めて成田エクスプレスという電車に乗って、品川まで出た。品川の近くに住む、友達のところへ泊めてもらえることになっていたから。ちょうどラッシュアワーでごった返す品川駅に着くと、成田エクスプレスが着いたホームからは、家へと急ぐ人と見事にすれ違う仕組みになっていて、私はスーツケースを持ち、季節外れの野暮ったい厚着をしたまま(だってまだパリは寒かったからさ)、なるべく人々の邪魔にならないよう、人ごみを逆流して歩いた。なぜだろう、大量の、どれも同じような黒っぽいスーツを着た人たち、季節柄、リクルートスーツに身を包んだ、いかにもフレッシュで、新社会人という感じの若者にも出くわす 誰も疲れているので、皆、無表情で、ただ家路へと急ぐ。そんな人々と大量にすれ違い、私はなぜか、同じ日本人のはずなのに、『もう私はここには属さない』、そんな風に感じた。直感的に。

 

 

1月の、テロに対するマーチの時。同じくマーチが終わって家へ帰る人々と、リヴォリ通りの中央分離帯の上から逆流して、すれ違った時、私の心は、こうした人々と一緒にあって、同じように感じ、同盟を、連帯を感じていたというのに、なぜ、自分の国へ帰った途端、同じようには感じられないのか。ことさら矛盾のように思えて、おかしくもあったし、同調できない自分が悲しくもあった。心ではいつも、遠く離れた日本のことを思い、日本で何が起こっているか、時事ニュースだって出来るだけ目にするようにし、なるべく置いてきぼりにならないよう、気をつけているというのに、私の心は、もう同じ日本人の中では異国人のように感じるなんて。

 

 

電車の中でも、みんな一心不乱に手元の携帯に見入っている。その目は、生気に満ちていなくて、疲れだけが読み取れ、彼らが一体何を考えているのか、その表情からは読み取ることが出来ず、不安になり、怖くなるとともに、心が痛くなった。同じ電車でも、パリのメトロに乗っている人々の方が表情豊かで、ドラマチックである。ラテンと、Zenであることの違い。アティチュードからして違う。

 

 

日本とフランスが、その言葉のように、まったく違う社会で、文化であることはよく分かっているし、今更その違いを訴えようとも、批難しようとも思わない。ただ、本当にまったく違うと、こういう日常のワンシーンを目にするだけで、思ってしまう。そして、「もっと自己主張しなさい!」、「もっとはっきり言わないと駄目よ」と、ほぼ毎日のように怒られた怒濤の会社員時代を思い出し。。。それはそう遠い昔ではないのだが、やはり、日本人をフランス人にトランスフォームしようとしたって、畑が違うというか、いくら努力しても無理な話だったのだな、と思う。そう叱ってくれた上司には本当に感謝しているし、それは妥当な評価であったし、私の出来が悪くて、申し訳なかったなと思う。心ではいつも、そうなりたいと思っていたし、それが当時の私にとって、一番のミッションだったなと思う。

 

 

今は一時的に仕事を休んでいることもあって、ただフランスで暮らしてりゃいいので、こんなに楽なことはない。最も、日本で過ごすと、後半になるに従ってますます居心地がよくなり(当たり前なのだけど)、どんな店へ行ってもお店の人は優しいし、すこぶる丁寧だしで、いつもフランスに帰る度に、『あぁまた、お店の人が、冷たく、不親切な国へ帰らねばならぬ。。』と、ぐっと来るものがあるのだけど、と同時に、『また頑張ろう』と気持ちを新たにするというか。何度したって、やはり少しだけ、帰る前にはいつも勇気を奮い起こす自分がいる。

 

 

そんな不安な気持ちを抱えたまま、シャルル・ド・ゴール空港に着くと、迎えてくれたのは、優しい夏の太陽だった。真夏というにはまだ早いけれど、街行く人は皆夏の格好をして、女子はワンピースだったり、ノースリーブだったりと、まるで私がいなかったほんのちょっとの間に、季節が変わっていたみたい。それまでも、彼からのメールで、「最近パリはすごく天気いいよ。今日も一人で散歩して、セーヌまで行ってきたけど、カップルだらけで(と、以降愚痴をぶつけられる)」と天気がいいのは知っていたのだけれど、あまりにも長く暗い冬のおかげで、夏という季節がほんとうに存在していて、また訪れてくれたということ、信じられないでいた。タクシーから、きょろきょろと覗く。(えぇ、荷物が多いことを理由に、誘惑に負けてタクシーに乗ったとも!!)知っている街のはずなのに、こうにも日差しや、季節が違うだけで、物珍しく映る。まるで、初めて見る街のように。新鮮に映った。

 

 

あまりにも太陽は優しく、美しいので、おかげで大丈夫、ここでまた生きていけるさという気になってくる。あのまま日本に住んでいれば、何にかっかすることなく、心穏やかに暮らせただろうけど、それでも私は、私の人生を変えることを選んだ。後悔していない。辛かった日々を除いても、手に入れた今の生活や友は、かけがえがなく、最近ようやく、これから何年、フランスに暮らすことになろうとも、怖くない。そう、思えるようになった。

 

 

これってものすごい変化で、自分が一番びっくりしている。簡単な例だけど、例えば、最初の頃は仕事が大変過ぎて、『満期の3年まで、私、持つかな』と涙したり(母が証言)、好きな画集でも、これは重たいから持って帰るの大変になるから、買うのやめよう、と思ったり、お皿でも、なるべく買わず、やはり理由は、持って帰るの大変になるからやめよう、、だったのだけど、ここ半年くらいは、画集は買っちゃうし、食器もいろいろ買い揃えたしで、いつの間にか、私の心はしっかりとフランスに根付いていたようで。びっくりした。

 

 

« I no longer belong here » とも思うし、« I belong to nowhere »とも思う。もしかしたら、この先また違う国に住むことになるかもしれない。未来のことは誰にも分からない。いつも、今までも、何も分からなかったのと同じように。

 

 

***

 

 

日本で読みたい本をたくさん買った。最近日本語・国語について勉強していることもあって、そういう日本語関係の本も、たくさん。母国語ゆえに、近過ぎて、意識しなかったけど、「日本語」って語学の目線で考えると、むちゃくちゃ面白い。私は英語もフランス語も好きだけど、自分の言語である日本語も昔から好きである。今でも日本語は3Dだと思っているし。

鉄は熱いうちに叩けで、興味のあることは、興味のあるうちに集中して吸収!また来月か、その後くらいには、きっと違う波が来ていることと思うけど、今は国語に夢中であります。(広島のホテルでは、置いてあった現代語訳の「古事記」も読んだことだし。何してんだ(笑)。)

 

 

***

 

今回の帰省で、子どもの頃、小学・中学と書道を習っていた、まさに一番始めの先生に会いに行った。昔となんら変わりなく、84歳とは思えない程元気である。14歳で別の教室に移った私が、31になりこうして会いに行くと、やはり記憶と目の前の人物とが繋がらなかったらしく、最初はやはりぎこちなかったのだが、それでも良くして下さった。有り難い。

 

 

私は(少しでも話が盛り上がるようにと)今使っている筆と、お稽古で書いた、一番ましと思われる臨書を、半紙と半切、それぞれ5枚ずつくらい、様々な書体のを持って行き、見てもらったのだけど、飛んできた言葉はやっぱり、「これはまだ、先が長い …!」であったので、昔と変わらぬ先生の率直さ、言葉の優しさに、感動しました。ごもっともであります。早く、八段くらいにならなければ、本来ならこうして見てももらえないのだろうな、と感じ取ってしまった。

 

 

子どもの頃の私と、大人になった私とが段々と頭の中で繋がってきたのか、自然と話も盛り上がり、84歳の先生は、84になった今でも、毎月東京の方へ、自分の書いた臨書を送り、添削してもらっていると聞いた際にはべっくらして倒れそうになったといいますか、人間やはし、死ぬまで一生、勉強なのだなと意識を新たにしたというか、私の先がまだまだ長い(半人前以下)というのは当然のことなんだな、と、いろいろな感情がごっちゃ混ぜになって、なんかもう、「ははー!」とひれ伏すしかない。そんな感情になった。

 

 

別れる際には、昔の先生のユーモアと変わらぬ調子で、「もう別れて、帰ってこい!わしの後を継いで欲しい。(自分が死んだら)持ってる墨も道具も、全部捨てんといけんくなる」とおっしゃって、『いやそれは、捨てないで、是非遺品として頂きたい!』とちゃっかり思ったのだけれど、始めは冗談かと思って笑って聞き流していたら、先生は何度もそう言われるので、私も考えてしまって、この街に帰ってきて、先生のところへ弟子入りして、一生独身で終わったかもしれないけど、書に、芸に身を費やす人生も、悪くなかったかと、そういう人生もありだったかと思ったりしたけれども、残念ながら、現実はそうはゆかないわけで、私にはパリでの生活があるわけで、体が二つあったらと思わぬこともなかったけれども、悲しくて、複雑な気持ちになった。

 

 

そういう道もあるということ、もっと早く知れたら、違う風になっていたかもしれない。けれど、私がまだ書道を始めたのは、フランスに来てからであって、フランスへ来ていなかったら、私はまた書道を始めようとも、思わなかったのだ。これもまた、不思議な縁である。そして、今習っているパリの先生の才能に、べた惚れしている。先生の描くような世界、それも「書く」という漢字だけではなく、「描く」という要素もあるのだけど、つまりは「誰も字など書いてはいない」、、、あの言葉はほんとうだなぁと思うのだけど、私がそんな風に、書を通じて表現出来るようになるのは、言葉の上で言う三段とか、八段を通り越して、まだまだ本当に長い道のりが待ち構えているのであって、果てしのない、無駄な投資をしているのだろうか、高く付くな、、と、思わぬこともないのだけれど、文章でも書道でも、書くことが好きだし、家でお稽古していれば、母に「書いてる時嬉しそう、楽しそう」と言われ、その言葉が妙に嬉しく、念願叶って初めて熊野の町へ行けば、子ども時代の先生が即電話を入れておいてくれたこともあって、お店の人が非常に良くして下さり、熊野筆と言えば、今ではすっかり、化粧筆の方が有名になり、売り上げでも勝るという話で、「こんな若い方が、書道を」と伝統工芸師の方も喜んで、筆が出来るまでの様々な工程のお話をして見せて下さったり、町の書道具店で紙を買えば、いつも必ず1割引してくれたり、家用にと買った硯なんて、相当古いものだからと3割引きもして下さって、書道のおかげで、よいことばかりなんである。有り難い。

 

 

せっかくこうしてフランスにいるのだから、なんかもう諦めて()、普通とは違う道を行くことにする。日本にいたら、あのまま一生懸命会社員をやって、書道のこともてんで思い出さず、刺激のない、孤独な人生を歩んでいただろう。フランスに来て、大変なことはいっぱいあるけれど、私は今の生活が好きだ。それが、すっかり、リズムとして出来上がっているのを感じる。

 

 

これからも不定期だと思いますが、思ったことをつれつれと書いていきますのでよろしくです。(あと基本的なスタンスとして、日本のことを批判するつもりも、フランスの方が日本より優れてるなどど思う気は毛頭もありませんので、誤解されませぬよう...!)

 

 

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